短い人生を駆けた文武両道の紳士
宿澤イズム |
宿澤広朗(ひろあき)さんが急逝してから、この6月で10年になる。当時は三井住友銀行の取締役専務執行役員。休日を利用して、仲間たちと群馬県の赤城山周辺に登り、下山しようとして倒れた。急性の心筋梗塞で、55歳という早すぎる死だった。
熊谷高校(埼玉)から早稲田大学政治経済学部に進み、ラグビー部に入った。身長162cmと小柄ながら、スクラムハーフとして1年生のときから活躍。その卓越したゲームコントロールと果敢なタックルでスタンドの観衆を沸かせ、2年連続日本一の原動力になった。
就職してからは「銀行」と「ラグビー」という2つの世界で一流の仕事をした。第2回W杯で全日本がジンバブエを下して初勝利を挙げたのは、宿澤さんが監督のときだった。しがらみや感情に流されず、用意周到に勝つための準備をした。その冷静な采配は、さまざまな可能性を頭に入れながらも大胆にプレーした、現役時代の「スクラムハーフ・宿澤」そのものだった。
「なぜ宿澤か」。それは今回のW杯での快挙が、遅ればせながら、かつて宿澤さんが考えた強化案に沿ったかたちで実現し、結果を出したからだ。そのころ宿澤さんはラグビー界の現状や将来を憂い、改革に手を染めたが、旧守派から疎んじられ、協会から離れざるを得なかった。
サッカー界が川淵三郎さんを中心にJリーグを立ち上げたのとは対照的に、ラグビー界はアマチュアイズムを金科玉条にするばかりで、変わろうとしなかった。レベルの高い外国人監督や選手を招いて試合数を増やし、育成システムもつくってレベルアップを図っているサッカー界に対し、ラグビー界といえば、人気の大学ラグビーにおんぶにだっこするだけ。「このままでは、世界と勝負することなどできない。外国人監督を招き、社会人の試合数を増やして底上げしなければ…」というのが、宿澤プランだった。でも、わかってもらえなかった。
ロンドン勤務の経験があり、ラグビー発祥の地でその神髄を目の当たりにした宿澤さんにとって、ラグビーという競技は単に勝ち負けを競うスポーツではなく、競技を通して個を成長させ、社会のリーダーを養成するためのものだった。ゲームや練習を通して責任のある決断をし、人間としての誇りを育むものでなければならなかった。
だから、優秀な選手をとって当たり前のように勝つ、強いだけのチームになってしまった母校ラグビー部に対しては、「早稲田ラグビーの精神というか哲学がない」と批判的だった。宿澤さんにとってのラグビーとは技術面でその道のプロをめざすためだけのものではなく、人間として成長できなければ意味がなかった。自分はそうして育ててもらった、という自負があった。
ラグビー用語である「キャプテンシー」「ノーサイド」「アフター・マッチ・ファンクション」…。グラウンドでは選手自らが考え、判断し、行動する。それには自らに磨きをかけ、ミッションを共有して高いレベルで戦わなければならない。そして試合終了のホイッスルが鳴ったら、その瞬間にノーサイド。お互いの健闘をたたえ合って交流し、コミュニケーション能力を高める。その積み重ねによって、人間として敬われる真のリーダーが育っていく。
このところの、開いた口がふさがらないほどのさまざまな不祥事の元凶は、その世界だけでの狭い価値観による勘違いや非常識がもたらしているような気がしてならない。宿澤さんは真摯な紳士だったのだと思う。
(安竜 昌弘)
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