316号 熊本地震に思う(2016.4.30)

画・黒田 征太郎

川内原発止めない政府の無神経さに懲りない日本みた

 熊本地震に思う

 熊本地震の報道を見るたびに、3.11での体験が蘇ってくる。水がない苦しみ、避難所での不自由さ、余震の恐怖、山積みされた救援物資…。東日本大震災の場合、津波と原発事故が重なったから、より複雑な問題が噴き出した。それは、5年過ぎた今でも続いている。
 震災当初は、何が起こったのか、よくわからなかった。大きな地震ではあったが、収まれば、いつものような日々がやってくると思っていた。ところが海辺が津波に襲われ、福島第一原発が爆発して、状況が一変した。原発に近い町では、瓦礫の下敷きになっている人たちを残して、避難せざるを得なかった。 
 あのとき枝野幸男官房長官(当時)は、原発から20〜30kmの放射線量や放射性ヨウ素の値について、「ただちに人体や健康に影響を及ぼす数値ではない」というコメントを繰り返した。この、意味深長であいまいな言葉こそが、政府をはじめとする官公庁広報の特徴であり、本質だということを学んだ。
 都合の悪いことは言わず、不確かなものは、当たり障りのない言葉で濁す。国民に不安を与えると大混乱に陥るからと、ひたすら「大丈夫」を連呼する。その連続だった。結果、ヨウ素による初期被曝の実態は隠され、甲状腺がんの患者がどのくらい広がっているのかについても、いまだに闇の中のままだ。

 どんどん窮屈になっている、この5年について考える。原発事故で原発反対の動きが高まり、放射能の恐ろしさが言及された。抗議行動が活発化し、野田政権を退陣に追い込む原動力になった。
 しかし…。安倍政権になって特定秘密保護法、安保法が成立し、報道に対する牽制や監視が強まっている。政府が報道内容について「偏向している」と決めつけることでマスコミが過剰反応し、必要以上の自主規制や同調圧力が広がっている。「長いものには巻かれろ」と口をつぐむケースが目立ち、政府寄りの無味乾燥な報道が増えている。そこにジャーナリズムはない。
 熊本地震のあと、NHKの災害対策本部会議で、籾井勝人会長が原発関連の報道について「住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と話したという。国内で唯一稼働している川内原発(鹿児島県)を停止させないことに対して反対意見が高まっている中、それを煽ってはいけない、という思いなのだろう。これは、この五年を象徴する出来事でもある。 
 今回の地震は、震源域が北西(大分県側)と南西(鹿児島県側)に広がる、予想外の連鎖を示している。
 その先には伊方原発(愛媛県)と川内原発があるだけに、現状をきちんと把握し、どうすべきかを考える必要がある。福島の二の舞だけは、避けなければならない。福島の原発事故のあと、国と県、そしてほとんどの市町村は経済が崩壊してしまうことを恐れた。放射能のために企業が撤退し、町がゴーストタウンになってしまったら取り返しのつかない、と国の「安全キャンペーン」にのった。「がんばろう」を前面に出し、放射線のリスクを知らせることを極力抑えた。それは経済を復興させるうえでマイナスになる情報を、積極的に知らせないことでもあった。
 籾井会長の「原発報道は公式発表をベースに」という発言は、報道機関であることを放棄してしまった、ともとれる。SPEEDIの情報を隠して大量被曝を生み、多くの健康被害をもたらした。それを暴き、どうすることが良かったのかを検証するのがメディアの役割であり、責任ではないか。それを続けることで、国民それぞれが自分で判断できるようにしていかなければならないからだ。
ジャーナリストの本多勝一さんは、記者の心得として次のように書いている。
「警戒すべきは、無意味な事実を並べることです。(中略)全く無色の記者の目には、いわゆる客観的事実(つまり無意味な事実)しかわからぬであろうし、従ってテープレコーダーと同じような無意味なルポができるでしょう。(中略)いわゆる客観的事実の記事はPR記事にすぎず、それはドレイ記者の記事であります。体制の確認にすぎません。新聞記者は、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが使命だといえるかもしれません」(『事実とは何か』より)
 この文章からは安倍政権が言う「中立公正」「偏っている」の意味がくっきりと見え、「公式発表」をそのまま湯水のように流すことが、メディアとしてどれだけ手足を縛ることになるかが、わかる。
 至る所に活断層が走る地震列島日本。震源域が拡大し、その延長上に動いている原発があるというのに、止める気配もない。教訓、経験が生かされないのはなぜか。熊本地震のニュースを見ながら、福島の地で、「懲りない日本」にため息をついている。

(安竜 昌弘)

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