321号 岡林さんの涙(2016.7.15)

画・黒田 征太郎

オカバヤシさん泣いてくれてアリガトウ

 岡林さんの涙

 目の前に69歳の岡林信康さんがいる。ギターとハモニカによる、たった1人でのライブ。友の急死をきっかけに「自分は残りの人生でやり残したことはないのか」と自問し、全国のライブハウスを回って弾き語りをしているのだという。アンコールの締めは「自由への長い旅」だった。

 最初にギターで弾けるようになったのは、岡林さんの「友よ」だった。コードの押さえ方を覚え、質流れのガットギターで何回も何回も練習した。そのあとギターはヤマハのフォークギターになり、レパートリーも増えた。
 岡林さんはずっと、伝説の人だった。やせ細った体、長髪に髭、物憂い瞳、そして社会の矛盾や差別を歌い上げるプロテストソング。それは真っ直ぐ体制に突き刺さり、放送禁止歌の山となった。その言動はまさにカリスマで、「フォークの神様」とも呼ばれた。それもあって憧れてはいたが存在があまりにも大きく、近寄りがたさを感じていた。
 日曜日の昼下がりに行われた、ザ・クイーンでの「岡林信康ライブ」。曲は「山谷ブルース」「流れ者」「チューリップのアップリケ」など懐かしいナンバーから、都会を捨てて山に籠もって作った「26ばんめの秋」へと移っていった。
 ステージと客席の緊張関係がほどよく解け始めていた。岡林さんは「ラブソングを歌います。いまの若い人たちは恋愛が面倒くさいんだそうです。ぼくが若かったころは、恋愛をしないということは、空気を吸わないということでしたけどね」と言い、スリーフィンガーでの演奏をバックにバラードを歌い始めた。
 ところが歌詞が2番目にさしかかったところで突然、感極まり歌えなくなった。「がんばれ」という声に「ありがとう」と答えて何とか歌い終えたのだが、何度もタオルで涙をぬぐった。そして「すまない。3.11のとき京都にいて…。みんな苦しんでいたのに何もできなくて。歌い手は、これじゃだめなのはわかっているんだけどね」と、真摯に詫びた。歌ったのは「君に捧げるラブ・ソング」。初めて聴いた曲だった。
 
 悲しみにうなだれる/君を前にして/そうさ何も出来ないで/いるのがとてもつらい/せめて君のために/歌を書きたいけど/もどかしい思いは/うまく歌にならない/今書きとめたい歌/君に捧げるラブ・ソング

 この曲、実は甘いラブソングではなく、急死した友人のカメラマンに捧げたものだった。川仁忍さん。日大芸術学部写真学科在学中にドヤ街の労働者を撮り、日本写真家協会新人賞を受賞したが、1979年にくも膜下出血で倒れ、34歳という若さでこの世を去った。
 その前年に1つ年下の岡林さんと出会い、岡林さんの写真を撮り続けていた。「君に捧げる…」は川仁さんを見舞った岡林さんが、何もできない無力な自分の思いを歌にしたものだった。川仁さんは医師に止められているというのに、「岡林の写真はおれが撮る」と言って写真を撮り、病状を悪化させた。
 川仁さんにとって「岡林信康を撮る」ということはライフワークであり、何を置いても大事なことだったのだろう。その写真は結局遺作になり、「街はステキなカーニバル」のジャケットに使われた。「君に捧げる…」はそのアルバムに収録されている。
 岡林さんは滋賀県近江八幡市の教会で生まれ、賛美歌を聞いて育った。1年浪人して同志社大神学部に入ったが、中退してフォークの道を歩む。
 「ぼくの歌は言ってみればドキュメンタリー。実際に見聞きしたことじゃないと書けない」と言うとおり、学生時代から山谷にたむろして日雇いの仕事をし、それが歌になった。まだ20歳代前半だというのに、注目されてもてはやされた。すると「俺らいちぬけた」とばかり、都会を離れて山で農業を始めた。
 そんな生活を4年ぐらい続けてまた都会に舞い戻り、演歌に目を開かされ、美空ひばりと交流した。かと思えば日本のロックを探して盆踊りのリズムをベースにした「エンヤトット」にのめり込んだ。
 いまは京都府の亀岡市に住んで鳩やランチュウ(金魚)を飼い、田畑を耕す生活をしながら全国を巡って、一人ぼっちのライブをしている。
 「自由への長い旅」は「いつの間にかわたしが/わたしでないような」で始まる。つねに自分らしさを追い求め、自らの心に正直に行動してきた岡林さん。そしていま、歌があるから生きているのではなくて、生きているから歌が生まれる、ということを実感するのだという。

 コンサートで流した岡林さんの涙は優しく、温かかった。それは亡き友を、福島を思い、「何もできない自分」を重ね合わせた、真っ直ぐな美しい涙だった。それがなんだか嬉しくって、お礼を言いたい気持ちになった。
 オカバヤシさん、泣いてくれてアリガトウ。

(安竜 昌弘)

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