323号 五輪考(2016.8.15)

画・黒田 征太郎

経済五輪でなくスポーツの祭典であってほしい

 五輪考

 暑い日が続いている。社会はまるで、報道ジャックされたようにリオ五輪の洪水。その間隙を縫うように、イチローが3000本安打を達成し、天皇陛下が生前退位を示唆する内容を読み上げるビデオメッセージが放映された。8月は広島と長崎の原爆の日、終戦の日もある。さまざま、思いを巡らせることが多い。
 リオ五輪を見ていると自然に、次に開かれる東京五輪へと頭が飛ぶ。リオでは「五輪阻止」の反対デモが行われ、「みんな金がなくて困っているのに、なぜ五輪をしなければならないのか」と、激しい抗議を続けている。それもあって開会式はかなり節約された。でも内容は決して貧弱ではなく、ブラジルの歴史や魂が表現されていた。
 なぜ五輪が7月から8月という暑い時期に行われるのか。そこにあるのは莫大な放映権料と視聴率との関係だ。大きなイベントと重ならないようにして、世界の注目を集めるために時期を特定している。そこに、金にまみれて歪んでしまったスポーツの祭典の本質がある。4年後の東京も当然のように、7月24日の金曜日が開会式、8月9日の日曜日に閉会式が予定されている。おそらく猛暑とゲリラ豪雨で頭を悩ませることだろう。

 昭和39年(1964)に開かれた東京五輪の開会式は10月10日だった。いまから52年前で、小学5年生のとき。真っ青に澄み切った空に描かれた五輪マークが印象的で、市川崑監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」にわくわくした。映画は、オリンピックによって変わってゆく東京を活写していた。時代背景や国民の意識から考えても、アジアで初めてのオリンピックを開催する意義はあったと思う。
 でも2020年はどうだろう。やはり「経済」の2文字が頭をもたげてくる。「五輪、五輪で目をそらし、原発事故をカモフラージュする気ではないか。そのために避難区域の帰還を進めている」とも思える。何より危惧するのは「五輪? やるような状況じゃないでしょう」という反対意見が言いにくくなることだ。百歩譲って認めざるを得ないとしても、環境に配慮した真のスポーツの祭典にしてもらいたい。

(安竜 昌弘)

そのほかの過去の記事はこちらで見られます。