重要なのは理解することではなくて感じること
ディランのこと |
ことしのノーベル文学賞はボブ・ディランに決まった。それを聞いたとき、「スウェーデン・アカデミーも粋なことをするもんだ。ディランが選ばれたのなら村上春樹も納得だろう」と思った。それから総合図書館に行ってディラン関係の本を探して借りた。中川五郎訳の「全詩集」はあったが、自伝は貸出中だった。さらにディランの「風に吹かれて」が全編に使われている、映画「アヒルと鴨とコインロッカー」(原作は伊坂幸太郎の小説)をDVDで見直した。車のBGMは自分で編集したお気に入り集にして、まさにディラン漬けの毎日。このミーハーぶりには、われながらあきれてしまう。
昭和44年(1969)、高校受験に失敗して予備校に通っていた。仲間たちのほとんどは高校生だというのに、中学生でも高校生でもない微妙な立場。その予備校にはいわき市内全域から来ていて、10組まであった。すでに教員を退職したり、教員採用試験をめざしている人たちが先生で、不思議な経験だった。
予備校のスタッフの1人に、若いアメリカ人女性がいた。予備校側が生の英語を学ばせようとしたのか、英会話教室を開くためなのかは、わからない。いまでこそ義務教育でALT(外国語指導助手)があふれているが、当時のいわきでは外国人の女性そのものが珍しかった。
そうしているうちに女性の授業が組まれた。簡単な英会話だった。確か2回目の授業だったと思う。彼女がレコードとプレーヤーを持ってやってきた。ジャケットを見せて何かを話したと思ったら、それをかけ始めた。フォークなのかカントリーなのかわからない。だみ声の男性が歌っている。なんとも不思議な歌の数々だった。
先生は「知っていますか?」と尋ねてみんなの顔を見回し、「このレコードには社会を変える力があるんです。興味があったら聞いてみてください」と言った。それがディランのファーストアルバム「ボブ・ディラン」だった。発売はその7年前。日本まで持ってくるくらいだから、よほど大事にしていたのだろう。それからすぐ、彼女は予備校を辞めていわきを離れた。結局、何があったのかは知らずじまいだった。
予備校のすぐ近くには「アポロ座」という名画座があって、よく友だちと一緒に見にいった。ちょうどアメリカン・ニューシネマの全盛期で「俺たちに明日はない」「卒業」「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」などを次から次へと見た。
ヨーロッパ映画も質が高く、お気に入り女優はジョアンナ・シムカス、キャサリン・ロス、そしてカトリーヌ・ドヌーヴ。音楽もサイモン&ガーファンクルに夢中で、とてもディランまでは至らなかった。
高校に進学すると日本のフォークが全盛期を迎え、吉田拓郎が出てきた。「ディランに影響された」という拓郎のたたみかけるような「イメージの詩」はまさに、ディランの匂いがぷんぷんしていた。
のちに「ボブ・ディラン」と名乗る、ロバート・アレン・ジママンは父母ともユダヤ人で、1941年(昭和16)にアメリカのミネソタ州ダルースで生まれた。大学時代にウディ・ガスリーのレコードを聴いて衝撃を受け、その道を追いかけるようになる。「大地を揺るがすような音楽」だと思ったという。それから次々と歌が生み出されていく。
「風に吹かれて」「くよくよするなよ」「マイ・バック・ペイジズ」「アイ・シャル・ビー・リリースト」…。気に入っている曲は多いが、一番うらやましいのはその自由さであり、縛られない生きざまなのかもしれない。
どれだけ長く生き続ければ
虐げられた人たちは晴れて自由の身になれるのだろう
どれだけ人は顔をそむけ続けられるのだろう
何も見なかったふりをしてその答えは友よ、風に吹かれている
その答えは風の中に舞っている
中川五郎さんが訳した「風に吹かれて」の詩。公民権運動やベトナム戦争の時代にディランは颯爽と登場し、吟遊詩人のように言葉を発し、メロディに乗せた。それが口伝えのように広がり、いわきの片隅にまで届いた。まさに時代を象徴する存在だった。
「デイランの声は言葉を解釈するだけではなく、言葉に生命を与える」と言われる。デイラン自身も「重要なのは、ぼくが書くことを理解するのではなくて、感じることだ」と言っている。しかもその歌は瞬間瞬間を生きて、変わり続けている。だからいつ聴いても新鮮なのだろう。かといってすぐ消えてしまうわけではない。本質的なディランの歌は時代や世代を超えて普遍的に受け止められている。
ノーベル文学賞に決まって言葉を失ってしまったというディラン。トランプ大統領の誕生をどう感じているのか、聞いてみたい。
(安竜 昌弘)
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