ワイン大好き競馬も大好き山歩きで発散
咲子先生 |
豊かなひとときだった。持ち寄った自慢のワインを飲みながらフランス料理食べ、近況を報告し合う、年1回の集まり。ボジョレーヌーボーの解禁に合わせて開いている。
言い出しっぺは、いまは亡き、医師の猪狩咲子さん。咲子さんとは市の懇話会委員として知り合い、その後、主治医になってもらった。福島労災病院の副院長を退いてから平の大工町にクリニックを開業したのだが、話し好きで包容力があって、会うのが楽しみだった。ところが胃に癌が見つかり、2014年5月31日、帰らぬ人となった。85歳だった。
ワインの会では自然に「咲子先生」の話になる。マッシュルームカットに眼鏡がトレードマーク。射撃やスキーをし、山を歩き、社交ダンスを踊って、競馬に一喜一憂した。落語も大好きだった。
ひたすら医療と向き合って独身を貫いた咲子先生にとって、男社会の医療界は、かんしゃくの種だったのではないか。「女のくせに」という突き刺さるような視線を、何度となく浴びせかけられたことだと思う。そんなときは迷わず山に入って大自然に包まれ、ひたすら歩いた。そして何事もなかったように下界に戻ってきて、患者を診た。
つきあいが長く、ワインの会のメンバーでもある看護師の馬目君江さんは「あのクリニックは咲子先生そのもの。ふっくらとした手は神の手だった」と話す。いつも「看護師の重要性」を力説していたから、スタッフたちはのびのび、生き生きと働いていた。
本の虫だった咲子さんは、草野にある実家に本を集めて文庫にすることを夢見ていた。思えば労災病院の「ふくろう文庫」を始めたのは咲子さんだったし、クリニックにもさまざまなジャンルの本が置いてあり、貸し出していた。競馬の血統関係の専門書を目にしたときには嬉しくなり、競馬談義に花が咲いた。
ことし亡くなった永六輔さんは「人間は2度死ぬ。1度目は文字通りの死、2度目は話題にものぼらなくなって忘れ去られたとき」と言っていた。そういう意味でも「会を続けなければ」と思う。
最後に「会の名称を『咲子先生ワインの会』でいかが」という提案があった。もちろん、みんな大賛成だった。
(安竜 昌弘)
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