

東北の南端意識は北関東中央追随で国に逆らえない
いわきとは |
高校生のとき、日本史を教わった先生はユニークだった。テストは設問が3問ぐらいしかなくて、すべて記述式。授業も教科書を使わない。そして「なぜだと思う」と問いかけてくる。
ある日の授業で「徳川幕府の将軍の使命というか、一番の仕事はなんだと思う」と生徒たちに尋ねた。さまざまな答えが出るのだが、先生は「違う」を繰り返すばかり。みんな「だめか」と思ったところで、日本史だけはだれにも負けない、という匂いをまき散らしている同級生が満を持したように手を上げ、自信たっぷりに「子づくりです」と言った。先生は「その通り」と言って、江戸時代の授業に入っていった。
歴史は「暗記もの」と思われがちだが、時代のひだをたぐり寄せて、人々の暮らしに思いを馳せるのが楽しい。そういう意味で、高校時代の日本史の授業はありがたかった。表面だけを薄く広く触るだけではなく、何に眼差しを向けて、その奥にあるものをどう理解するのか、その喜びを教えてくれた。
先日、平川南さんの「石城国一千二百年記念講演会」に行き、大和朝廷が地方を制圧していく過程を興味深く聞いた。中国大陸や朝鮮半島との関係を深めて制度や文化を手本にし、それを強要しようとした朝廷だったが、従うことを頑なに拒否し、自分たちの文化を守ろうとする人たちがいた。朝廷は異なる文化を持つこの人たちを「蝦夷」と呼んで敵に見立て、国の結束を強めようとした。日本書紀の景行天皇の巻には蝦夷について、「撃てば草に隠る 追へば山に入る 故往古より以来未だ王化に染はず」と書かれている。そして平安時代に蝦夷の英雄ともいえる阿弖流爲が登場し、坂上田村麻呂の軍門に降る。
いわきのアイデンティティーについて、時々考える。古くから常陸国との交流が深く、所属は東北でも意識は北関東。それもあって朝廷に協力して、蝦夷制圧にも駆り出された。いまのいわきの立ち位置というのは、そうした歴史的背景が底流にあることがよくわかる。
視線はいつも中央にあって、政治も文化も中央追随。そのせいか国にはっきりともの申すことができない。でも都合のいいときだけ東北を使う。いわき人の一人として、それが歯がゆく情けない。さらに東北について学んで東北人の血脈や誇りを持つ必要を感じる。
(安竜 昌弘)
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