たわいのない日常に立ち上がる「流されてはいけない」
夏の出来事 |
「わたしたちは生きている限り何かをなくし続ける」。朝のドラマ「半分、青い」で主人公の楡野鈴愛がナレーションでつぶやく。脚本を書いている北川悦吏子の実感だろう。ドラマでは鈴愛の運命の人、律の母親・和子(原田知世)が亡くなったときに重ねられた。
暑い日が続いている。八月は父と母の新盆、両目の白内障手術があり、ばたばたと過ぎていった。
目はまず、20日に右目を手術した。曇ってしまったレンズを細かく破壊して吸い取ってから人工レンズを入れるのだが、時間にすれば20分もかからない。思いと現実にはギャップがある。術後に顔が半分も隠れるほどの大きなガーゼをされ、吉永小百合が主演した「愛と死をみつめて」という映画を思い出した。軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じた女性の物語だった。
左目の手術は3日後の23日だった。手術の前に瞳孔を開けるので点眼する時間をとらなければならない。そのときに3人ほどが同じ部屋にいることになる。2回とも同じ女性が隣だったので、少し話をした。震災後から急激に目が悪くなったという。「仕事中にくも膜下出血になり、九死に一生を得た」とも話していた。いわきの医療事情が大変なのをみんな知っているので周囲の目が「本当によかった」と語っていた。
両目とも1日でガーゼがとれ、24日には前とは違う目になった。主治医からは「遠くが見えるレンズを入れるので、近くを見る場合には眼鏡が必要になります」と言われていた。確かに遠くを見るときは世界が違う。よく見える。しかしスマホの文字やメモが読めない。少し目が落ち着いたら、きちんとした眼鏡を作ろうと思っている。
父母の新盆も白内障の手術も「半分、青い」を見ることも日常のひとこまなのだが、ときどき震災や原発事故、放射能のことが頭をよぎる。テレビでは高校野球やスポーツのアジア大会、バラエティーなどが次から次へと放送されている。オリンピックも近づいてきた。「見えないところで何かが意図を持ってコントロールしているのでは」と思ってしまう。流されてはいけない。
(安竜 昌弘)
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