384号 優しい時間(2019.2.28)

画・黒田 征太郎

大きく深呼吸する 相手をじっと見つめる ゆったりと時を刻む

 優しい時間

 地域紙にいたころ、福祉を担当していたことがある。まだ障害を持っている子を外に出したがらない親が多い時代で、「障害は人格ではない。個性」とノーマライゼーションが叫ばれていた。福島整枝療護園の園長をしていた湊治郎さん(故人)はつねに「弱者が普通に生活できる社会にしていかなければなりません。そして障害がより重い人たちにまなざしを向ける必要があります」と言っていた。
 そのころは脳性麻痺の人たちが「青い芝の会」を結成し、車いすに乗って街頭でチラシを配ったり、知的障害を持つ子の親たちが「手をつなぐ親の会」として親亡きあとの施設をつくるために自ら資金を積み立て、募金活動などをしていた。でもいま、障害を持つ人を街で見かけることが少なくなった気がする。
 宍戸大裕監督の映画「道草」を見て、さまざまな思いが体中を駆け巡った。一番は重度の知的障害を持つ人たちの居場所だろう。そのなかに施設職員に暴力を振るわれ、他害行為をするようになった男性が出てくる。幼いころに父を亡くし、母は生活を維持するのに必死だった。そのうちに精神が不安定になり、母にも暴力を振るい始めて、家での生活ができなくなる。施設でも手を余し、どんどん社会から追いやられていってしまう。
 単に自閉症とか発達障害と言ってもさまざまだし、育った環境や親、施設、職員との関係などでかなり違ってくるから、ひとくくりにはできない。暴力行為がエスカレートしてくるとどうにもならなくなって、精神科の病院に入ることになる。でも長くはいられないから、また出てくる。その繰り返しだ。

 いじめ、虐待、ヘイトスピーチ、あおり運転…。この、社会を覆うイライラ感はなんだろう。みんな、いやに早口でせっかちに事を進めようとする。違う意見の人たちを、みんなで袋だたきにしてしまう。それが正論であっても、自分にとって不都合なものに対しては容赦しないで攻撃をし続ける。だからそれぞれが、「われ関せず」を決め込んで上目づかいの傍観者になってしまう。ため息が出る。
 だれでも年をとる。事故で心身が不自由になるかもしれない。そうなったら、何をするにも時間がかかる。それにいちいち反応し、いらついていては社会が成り立たない。大きく深呼吸をして相手をじっと見つめ、ゆったりとした優しい時間を取り戻すことが必要だ。

(安竜 昌弘)

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