386号 永さんの仕事(2019.3.31)

画・黒田 征太郎

まずスタジオを出る 庶民に眼差しを向けそれを伝え続ける

 永さんの仕事

 震災のあと、茨城県の笠間市を訪ねたら、坂本九の「上を向いて歩こう」が流れていた。笠間は地震の影響が激しく、建物がかなり被害に遭った。陶芸の町でもあるから、器もかなり壊れたらしい。陶器の原材料である土にも放射能の影響が出たようだ。そんななかで九ちゃんの歌声。心が少し弾んだ。
 笠間は九さんの母の実家があり、戦時中は2歳から6歳まで疎開していた。柏木由紀子さんとの結婚式も笠間稲荷で挙げたこともあって、なじみが深い。町には実際に住んでいた家が残っていて「九ちゃんの家」として開放しているほか、「上を向いて歩こう」の歌碑もある。
 この歌は永六輔さんが作詞した。夏には亡くなって3年になる。先日、永さんの人生を追ったテレビを見て、六〇年安保の鎮魂歌として書かれたことを知った。あらためて歌詞を読んでみると、喪失感や絶望に打ちひしがれた永さんの心情を垣間見ることができる。
 晩年の永さんはパーキンソン病に苦しんだが、レギュラー番組を休もうとはしなかった。現場主義を貫き、スタジオを飛び出していった。その根底にあったのは「歩く巨人」と呼ばれた民俗学者、宮本常一の「スタジオを出て、ラジオ電波が届く先まで行きなさい。そこで見聞きしたことを全国に向けてしゃべりなさい」という教えだった。
 それは、中央ではなく地域に目を向け、伝統文化と庶民にまなざしを向け続ける、ということだった。永さんはその教えを胸に刻んで日本中に出かけ、そこで起こった出来事や出会いを電波に乗せた。「永六輔の誰かとどこかで」はそんな番組で、地方からの土産話を持ってスタジオに帰ってきては、46年、12,638回にわたって、それを披露し続けた。驚くべき数字だと思う。
「日々の新聞」を始めてから、ご都合主義的な行政の発表とは縁遠くなった。震災以降は、その意識がさらに強くなった。ようするに発表ものに対する不信感で、市井の人たちの話を聞いて伝えた方がよほど価値がある、と思えたからだ。人それぞれには人生がある。そこに有名、無名は関係ない。立場や組織に縛られない、自由で屈託のない人たちの言葉を紹介したい、と思うようになった。
 生意気盛りのころ、「たまには年寄りの話を聞くもんだ」と言われて、ハッとしたことがある。いまでは立場が逆になってしまった。

(安竜 昌弘)

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