421号 文章を書く(2020.9.15)

画・黒田 征太郎

近ごろの本は漢字が減ってページがいやに白っぽく感じる

 文章を書く

 知り合いに頼まれて、小名浜ロータリークラブで話をした。何を話すべきか、いろいろ迷ったが、タイトルは「文章を書くということ」にした。新聞記者としての経験は長いとはいえ、国語の先生ではない。「これは文法的にどうですか」と尋ねられても、自信を持って答えられない。でも、日々の仕事のなかで感じていることを話そう、そう腹をくくって壇上に立った。
 新聞記事ではよく、「中学生が読めるレベルのものを書くこと」と言われる。まず、わかりやすさが第一というわけだ。「天声人語」の筆者だった疋田桂一郎さんは「私が目指しているのは、無味無臭、真水のような文章です。クセとかフシとか調子のない文章」と書いている。とはいっても、「文は人なり」。自然と書き手の人柄が出てしまう。さりげなく自分を出しながら読み手が抵抗なく読めて、心地よい読後感を残すことができれば、合格ということになる。
 「文章を書くことが苦手で」と言う人がいる。そういう人に限って、弁が立つ。それは、知らず知らずのうちに頭の中で文章を組み立てている、ということで、それを文字化すればいい。「文章を書く」と構えるのではなく、浮かんだ言葉を紙に書き、単文でつないでいけばいい。
 確かに、慣れないうちはつなぐ作業が大変なのだが、書く習慣ができてくるとスムーズになってくる。頭と手と目を連動させていけば、思ってもいなかった言葉が出てくることもある。
 心がけているのは、できるだけ横文字、カタカナ語を使わないということ。ひとりよがりの難しい言葉も極力、避けるようにしている。いつも活字になってから自己嫌悪に陥っている―。緊張しながら、そんな経験談や思いを話した。
 終わってひと息ついたら、質問が出た。「わかりやすい文章を書く、というのはわかる。新聞の場合はそうだろう。でも難しい言葉を使っていかなかったら、日本語が味も素っ気もなくなってしまう。そうでなくても面倒なことを避けたがる世の中だ。そのうえ、言葉を使う際の配慮、忖度が多すぎる」
 確かに。活字離れ、ネットの普及などで、「より単純にわかりやすく」という風潮が強まり、それに慣らされてしまっている。実際、文章から漢字が減って平仮名や片仮名が増え、ページがいやに白っぽく感じる。思えば自分の文章も平仮名が増えている。足元を見るいい機会になった。

(安竜 昌弘)

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