いまも体の中に棲みついているリズミカルな筒美サウンド
時代のうた |
1994年(平成6)のことだ。車でラジオをかけていたら、ある曲が流れてきた。初めて聴く曲だった。間奏でハープがポンポンポンと美しいメロディを奏でる。何の違和感もなく、スッと心に入り込んでいった。NOKKOの「人魚」で、作曲したのは70年、80年代の日本歌謡界を牽引した筒美京平。それを知ったときに、筒美サウンドがどれだけ体に棲みついているかを思い知らされた。
その筒美さんが先月7日に亡くなった。80歳だった。昭和15年、東京・新宿生まれ。初等部から青山学院に通い、大学時代はジャズに熱中。日本グラモフォンで洋楽担当ディレクターの仕事をするかたわら、作編曲をするようになる。4年後には会社を辞めて作曲家としての道を歩み始め、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)がオリコン1位になった。
70年代が青春時代だったので、グループサウンズ、フォーク、海外ポップスの洗礼を受けた。そうしたなかで登場したのが、バート・バカラックやポール・マッカートニーに影響を受けた作曲家・筒美京平。明るく前向きでリズムに溢れ、魅力的だった。「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)「真夏の出来事」(平山三紀)「たそがれマイ・ラブ」(大橋純子)「飛んでイスタンブール」(庄野真代)「東京ららばい」(中原理恵)「異邦人」(久保田早紀)…。こうして筒美作品を列記しただけで、すぐメロディが浮かんでくる。しかも歌っているほとんどが、当時は無名の歌手ばかり。曲の良さと洗練されたプロデュースがヒットを生み、時代を席巻していく。
「木綿のハンカチーフ」の作詞を担当し、筒美さんと多くの作品を作ってきた松本隆さんは日本ポップス史における筒美京平の位置づけ、影響について聞かれ、こう話している。
「洋楽ポップスと日本の歌謡曲との接点を探し、それを埋めてヒットさせてきた人だと思う。それが新しい歌謡曲というジャンルを作ることになった。すでに日本の音楽のプラットフォームになっているのではないか」(朝日新聞インタビュー)
高校時代、南沙織ファンの友だちと連れだって、常磐ハワイアンセンターへ行ったことがある。思えば、そこで披露された「17才」「潮風のメロディ」「傷つく世代」などはすべて、有馬三恵子、筒美京平コンビの作品だった。いまも、あのステージの躍動とまぶしさがよみがえってくる。
(安竜 昌弘)
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