

僕にとって音楽はコミュニケーション
ただ人々と対話したいんだ
ジョンの命日 |
ビートルズの音楽が突然消えてしまった世界を描いた映画「イエスタディ」。ミュージシャンにならなかったジョン・レノンは殺害を免れ、船乗りとして海辺の町で暮らしている。
1980年12月8日午後10時50分、レコーディングの仕事を終えてニューヨークの自宅に入ろうとしたジョンは25歳の青年に呼び止められ、振り向きざまに拳銃で撃たれて死亡した。40歳だった。撃ったのは5時間前、玄関口でレコードにサインをもらった青年で、「ジョンを殺せば有名になれると思った」と話した。65歳になったいまも服役している。あれから40年がたった。
NHKBSで「〝イマジン〟は生きている ジョンとヨーコからのメッセージ」を見た。二人はベトナム戦争に反対し、「平和を願うなら自分からメッセージを発信して」と訴えた。キーワードは愛と平和。みんなで合唱できる歌を作って積極的に集会に出た。そうした行動はニクソン政権に疎まれ、移民局から国外退去命令を受ける。
「ステージで歌ってろ。でしゃばるな」との声に「政治というのはそこら中にある。無関係ではいられない。いい時代をつくるのは人間の義務なんだ」と言い、「兵士たちを故郷に戻そう。兵器も引き揚げよう」と声を上げ続けた。FBIがその行動を監視し続け、のちに公開された「レノンファイル」は500ページにも上ったという。
ビートルズ解散の原因の一つといわれるオノ・ヨーコ。その自由で奔放な行動から、そのイメージは決して良くない。しかしこの番組を見ると、ヨーコの存在がジョンにとっていかに大きいかがわかる。ビートルズ絶頂期、ヨーコはジョンに「あなたは裸の王様よ」と言った。「イマジン」もヨーコとの会話から発想され、のちに共作としてクレジットされた。ヨーコは気ままだがナイーヴなジョンの心を和らげ、同志として同じ価値観を共有し合った。まさに「一緒に夢を見よう」だったのだろう。
「レノン・ウォール」という壁の張り紙は、ジョンが凶弾に倒れた直後から、言論が弾圧されているなかでの解放区としてチェコのプラハに出現した。それが香港へと飛び火し、台湾でも出現した。そこには香港へのエールと「きょうの香港はあしたの台湾」という意識がある。
「僕にとって音楽はコミュニケーションだよ。ただ人々と対話したいんだ」—。ジョンの言葉だ。
(安竜 昌弘)
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