479号 ある新聞のこと(2023.2.15)

画・黒田 征太郎

 

    戦時下に憩いと想いの午后を

    取り戻す京都での試み

 ある新聞のこと

 「背表紙と目が合う」ということがある。これは書店に寄ってなんとはなしに書棚を眺めているときに起こる。先日も鹿島ブックセンターの詩や短歌、俳句が並んでいるコーナーから長田弘著『知恵と悲しみの時代』(みすず書房刊)を取り出した。 帯には「昭和の戦争の時代に遺された本から、伏流水のような言葉と記憶を書きとどめること。『不戦六十年』を過ぎたいま、この国の自由と『言葉のちから』を問う」とある。出版されたのは2006年。長田さんは2015年に75歳で亡くなっているから、その9年前に世に出ていたことになる。

 そのなかに印象深い文章がある。「憩ひと想いの午后」(1936)。京都で1年あまり続いた、隔週刊の小新聞「土曜日」(タブロイド判6ページ)について書かれている。始まりは、京都の松竹下鴨撮影所にいた斉藤雷太郎が撮影所で働く人々の親睦のためにつくった「京都スタジオ通信」だったが、毎月第一、第三土曜日に定時発行する「土曜日」に衣替えし、まず2000部刷った。
 その新聞を、広告を出してくれた街の喫茶店のテーブル一つひとつに置いてもらったところ評判を呼び、平均で4000部、多いときは7000から8000部出たという。置いてくれた店も百部を半額で買い取り、応援した。記事のなかには当時28歳だった映画評論家・淀川長治の「失はれた地平線」についての批評もある。
 しかしこの新聞は発刊から1年4カ月後の1937年(昭和12)11月、発行人の斉藤など中心メンバーが治安維持法違反で次々と検挙・拘留され、発行できなくなってしまう。そして終刊号には「明日への望みは失われ、本当の知恵が傷つけられ、まじめな夢が消えてしまった。しかし、人々はそれでよいとは誰も思っていないのである。何かが欠けていることは知っている」と記した。それは、創刊号に載った挨拶の言葉で、状況は何一つ変わらなかった。
 この新聞の発刊は「窮屈で困難な日々に憩いと想いの午后を取り戻したい」という、文化人たちの気概だったのだろう。著者の長田さんは「(この新聞が)最後までくずさなかったのは、みずから掲げた『この新聞は読者が書く新聞である』という、街の新聞としての、インディペンデント・ペーパーの自恃です」と書く。「インディペンデント・ペーパー」とは、政治的にどこにも属さない新聞のことで、戦時下にこの姿勢をとり続けたことに瞠目する。長田さんはそれを「神風」ではなく「紙風」と表現し、讃えている。
 いま、報道が縮んでいる。忖度や遠慮が蔓延し、いわれのない恫喝に沈黙する。だからこそ、この小さな新聞の自由で気高い精神や姿勢、志を見習いたい。   

                                       (安竜 昌弘)

 

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