494号 鬼海弘雄写真展(2023.9.30)

画・黒田征太郎

 

  浅草寺境内で

  仮面を被っていない地のにんげんを撮影し続ける

 鬼海弘雄写真展

 8月の暑い日、山形県の寒河江市へ向かった。浅草の浅草寺境内で奇妙な人たちの写真を撮り続けた鬼海弘雄さんの写真展が開かれていると知ったからだ。『PERSONA』『や・ちまた』…。独自の世界観を持つ鬼海さんの人物写真は一目見ただけで、その人の人生を知りたい衝動に駆られる。そして写真につけられた短い一行がさらに好奇心を膨らませる。
 山形県寒河江市(旧醍醐村)の生まれ。高校卒業後に山形県の職員になったが、公務員が向いていないことを思い知り、法政大学文学部哲学科に入学した。そこで生涯の師ともいえる哲学者・福田定良と出会った。トラック運転手、造船所工員、遠洋マグロ漁船乗組員などをしたあと、「自分一人でできる表現方法」として写真を始めた。アメリカの女性写真家、ダイアン・アーバスの人物写真を見て「いくら見ても飽きない」と感じて傾倒し、試行錯誤の末に自分の世界にたどり着いた。
 鬼海さんのモットーは同じ条件で撮ること。撮りたい人が来たら声をかけ、同じ場所に立ってもらう。しかも無駄なシャッターは切らない。かつては因縁をつけられたりすることもあったが、時代が進むにつれて無視されることが多くなったという。浅草寺での撮影は1973年からで、2020年10月19日、リンパ腫のために75歳で亡くなる前まで45年以上続いていた。
 鬼海さんのエッセイに「一番多く写真撮らせてもらったひと」がある。写真集では「たくさんの衣装を持った女性」として一九九一年から登場した。そこには2013年の最後の写真まで10枚が載っていて、その女性の年の重ね方が興味深い。鬼海さんはその女性に「お姐さん」と声をかけて写真を撮らせてもらっていたが、路上死のような最期を知ってショックを受ける。彼女は浅草寺周辺を根城にする「たちんぼ」。いつも競馬新聞と赤ペンを持ち、みんなから「さくらさん」と呼ばれていた。
 鬼海さんが被写体に選ぶ奇妙な人たち…。いや、鬼海さんは浅草寺の境内にたたずみながら仮面を被っていない人間らしい人たちを探していたのかもしれない。社会の手垢にまみれず、自分と向き合って正直に生きている不器用な人たちの写真を撮らせてもらうことが、鬼海さんの写真家としての立ち位置だった。

 写真展が開かれていた寒河江市美術館はかつて、デパート(十字屋)だったところで、現在は寒河江市の中心市街地活性化の拠点施設「フローラ・SAGAE」として美術館のほかに衣料品店、書店などが入っている。しかし空きスペースが目立つ。ちょうど昼になったので蕎麦屋を探して食べた。古民家風の「弘庵」。ここの十割蕎麦がしなやかな舌触りでとてもおいしかった。

                                       (安竜 昌弘)

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