512号 いわき的(2024.6.30)

画 黒田征太郎

 

    白井遠平と河野広中はどこが違うのか

 いわき的

 歴史は好きなのだが、江戸末期から明治、大正、昭和が弱い。しかも高校の日本史の授業は駆け足で通り過ぎてしまうので、時代が薄ぼんやりとしか見えてこない。今回、白井遠平の人生を調べていて知らないことがあまりに多いことを痛感させられた。反省している。
 遠平が福島県会の副議長をしていたときに県庁を福島から郡山に移転するための検討が行われた。もう139年も前の話だ。議論を重ねて決をとったら賛成37、反対16で可決され、国に上申された。ところが信夫・伊達・相馬三郡の議員が猛烈な反対運動を展開し、ついには総理大臣の伊藤博文まで動かしてしまう。県会からの上申書はあえなく却下され、県庁はいまも福島にある、というわけだ。

遠平の前にはいつも、河野広中という存在が大きく立ちはだかった。ともに自由民権運動に身を投じ、「福島自由新聞」発刊の発起人に名を連ねたのだが、その後は袂を分かってしまう。そして、戦った2回の選挙で、遠平はともに河野の後塵を拝した。
 河野という人は一貫して民権主張のの純粋さを追い求める情熱的な政治家だったが、遠平はといえば、経済や経営を安定させ国民を豊かにすることを重視する保守的な政治家だった。どちらかというと政治家よりは実業家の方が向いていたのかもしれない。自ら開発した好間炭礦を古河合名会社に譲ったことを見ても、それがよくわかる。
 いわきの自由民権運動は、熱しやすく冷めやすい体質を象徴するように大きなうねりにはならなかった。知らず知らずのうちに元に戻って、また淡々とした日々が始まっていった。それがいまの議会にも表れていて、見えないところでコソコソ動くので、はっきりした物言いをすると疎んじられてしまう。遠平はある意味、「いわき的」なのだろう。 

 

                                                                                                                                                                                                       (安竜 昌弘)

そのほかの過去の記事はこちらで見られます。