532号 天平を語る(2025.4.30)

画 黒田征太郎

 

   私の詩は人間の根本の微少な物質で、
   幸福といふ一かけらであります。
                 (草野天平)

天平を語る

 「草野天平・梅乃が愛した詩と音楽の集い」に参加するため、4月20日に上京した。会場は世田谷区祖師谷の小さなホール、サローネ・フォンタナ。小田急線の成城学園前で降り、駅前でタクシーを拾って行く。ヴァイオリンとピアノとチェロのアンサンブルに詩の朗読。プログラムはほとんど同じなのだが、演奏後に、この会で知り合った人たちとお茶を飲みながら近況を報告し合う。そんな午後のひとときが楽しみで、よほどのことがない限り、年1回のこの会に顔を出している。

 地域紙にいたときに天平の人生を追う「ひとつの道―草野天平の生涯」を50回にわたって連載し、それを加筆して『天平―ある詩人の生涯』という本にまとめた。その後、天平夫人の梅乃さんが亡くなったことから、梅乃さんの人生を中心に再編集し、『いつくしみ深き―草野天平 梅乃 杏平の歳月』として出版した。それから六年になる。そもそもはいわきの文芸雑誌「6号線」の第13号で草野天平特集を読み、その詩や人生に興味を持ったのがきっかけなのだが、もう四十四年も前のことになってしまった。
 以来、梅乃さんやご子息の杏平さんと一緒に天平終焉の地である比叡山の飯室谷にある松禅院を訪ね、西塔にある「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」の巨大な詩碑と対面した。連載のために取材に応じてくれた天平ゆかりの人たちもほとんどが鬼籍に入り、隔世の感がある。時が過ぎるのは早い。

 実は5月10日にいわきワシントンホテルで開かれる「日本詩人クラブ福島大会2025」の第1部「草野三兄弟の詩歌について(民平・心平・天平を語る)」で、天平について話すことになった。新聞記者なので詩を書くわけではなく、その詩を分析したり批評することなど、到底できない。取材ノートを紐解いて実際に天平と接した人たちの話を組み合わせ、自分なりに感じた天平像や興味深いエピソードを話そうと思っている。
 天平はなぜ、世俗との関わりを断って比叡山に入ったのか、詩を書き始めたきっかけは何だったのか―。これは永遠の謎で、推測の域を脱することはできないのだが、より近く深くつきあっていた人たちの回想に、ほんの少しだがヒントがある。
 この催しに誘ってくれた詩人の齋藤貢さんは「心平はよく知られているけれども全国的には天平のことは知らない人の方が多く、民平に至ってはほとんど知られていない。この機会に天平や民平のことをより多くの人に知ってもらいたい、と思ったんです」と言った。それを聞き、「生涯をかけて天平の詩業を知らせるために奔走した梅乃さんの遺志に応えるためにも引き受けなければ」と思った。
 「今ゐる処にしつかりゐるのが一番いいのだ」(未定稿詩篇)。そんな天平の声が聞こえる。   

                                        (安竜 昌弘)

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