

強肩強打の内野手
そのグラブさばきがいまも目に焼きついている
悲しくてやりきれない
| 友の死 |
ある昼下がり、友だちの訃報が届いた。
10年以上になると思う。癌の治療を受けていて、不意に編集室にやって来ては、たまっている出来事を出し合っていた。普通に元気だったし、酒も飲んでいたから、いつまでも元気でいられると思っていた。ただ、「抗がん剤治療のあとは体調がすぐれない」と言い、数カ月前に電話をしたときに「治療が点滴から飲み薬に変わった。酒は飲まないように言われた。だから一緒に酒を飲むことができなくなった」との報告を受けていた。ちょっと不安になったが、それでも見た目は変わりなく、歯医者の帰りなどに差し入れを持って寄ってくれていた。
2週間ぐらい前だろうか。電話をすると口がもつれている。「どうしたんだ?」と尋ねると「血管がふくれて来ているらしい。調子が悪いんで足をこたつの中に入れて横たわっている」という。急に心配になった。数日後に電話すると、やはり口がおぼつかない。しかも黄疸が出て入院したという。「会いに行けるのか?」と聞くと「家族だけらしい。LINEならやりとりできるけど…」と言うので、いろいろやってみたがだめで、携帯番号にメッセージを送ったが返事がなく、そのまま顔を見ることもできず、つらい別れとなった。
友だちとは高校2、3年と机が前とうしろだった。2年生のときからショートを守る野球部の中心選手で、同じく組には野球部が3人いた。共学校だというのに、男子だけ、女子だけ、混合クラスに分かれていて、野球部はすべて男子クラスに振り分けられていた。高校時代はまるでマネージャーのように練習試合や公式戦を見に行っていた。
1971年夏、母校は福島県の代表決定戦まで勝ち進み、甲子園で準優勝した磐城に敗れた。そのチームには2年生がエースを含めて、4人出ていて、次の期待が高かった。その秋、エースが腎臓病を患ってリタイアしたが、県大会の決勝まで勝ち進み、惜しくも双葉に敗れて準優勝になった。とはいえ、夏に期待が膨らんだ。しかし本番は、安積商に3―4と足元をすくわれ、初戦で敗れた。その日はまだ授業があったために応援に行くことができず、悲しい幕切れとなった。友だちはその後、大学に進んで準硬式野球部のキャプテンになり、いわきに戻ってきた。
友だちの家は綴(内郷)の炭礦住宅で、高校時代に何回か遊びに行った。その炭住街は道路になってしまい、いまはもうない。
いつだったか、家を持とうとしない友だちに「どうして?」と尋ねたことがある。「女房からは言われるよ。別に。借家でいいんだ」と言った。そのとき、「エトランゼ(旅人)なんだ」と思った。
(安竜 昌弘)
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。
