ストリートオルガン

大越 章子



画・松本 令子

母と祖母、夫を思うもう一つのふるさと

茨木のり子さんと庄内

 

 11月初めに山形の酒田と鶴岡を旅した。新庄から最上川沿いを車で走って酒田に向かい、その日は湯野浜温泉に泊まり、翌日、鶴岡のまちへ行く前に、加茂の浄禅寺を訪ねた。加茂は江戸時代に北前船の風待ち港として栄えた港町。カーナビの案内で海岸沿いの道から細い路地に入り、迷いながらたどり着いた。
 浄禅寺には詩人の茨木のり子、本名・三浦のり子さんが夫の安信さんと静かに眠る墓がある。石段を上って山門をくぐり、奥の庫裏で茨木さんの墓の場所を尋ねた。ご住職の奥さんが「こんな雨のなか、よく来られたのう」と、傘をさして墓まで案内してくれた。
 庫裏を下がって間もなく墓はあった。墓石には「三浦家之墓」とだけ刻まれ、そこから海が見えて、後ろに大きなケヤキが墓地を守るように立っている。墓前で手を合わせ、ご住職夫妻に言われるまま本堂に上がり、ご住職自らが好きで集めたという詩集など茨木さん関係の資料が並ぶ部屋で温かいもてなしを受け、ご夫妻に茨木さんのことなどを伺った。

 それから鶴岡のまちに向かう車中では「ばばさま/ばばさま/今までで/ばばさまが一番幸せだったのは/いつだった?」と、茨木さんの詩「答」の最初の部分が頭に浮かんでいた。ばばさまとは母方の祖母で、茨木さんの母は鶴岡の北の三川町の大地主の家に生まれ育った。
 その母が長野出身で医師だった父と結婚したのには乳母がかかわっている。酒田と鶴岡の旅から帰ってきて、あらためて読んだ後藤正治さんの『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論新社)によると、茨木さんの父がスイスのベルン大学での留学を終え、日本に帰る船で仲よくなった庄内出身の青年が、母の乳母の息子だった。
 また茨木さんと安信さんの結婚には、ばばさまが関わっている。茨木さんの母の妹の子ども、茨木さんからみれば従姉妹があつみ温泉の老舗旅館の萬国屋の長男に嫁いでいて、その長男と安信さんは従兄弟同士で親友でもあった。萬国屋によく来ていた安信さんにばばさまが好感を持ち、孫娘を嫁がせたいと思ったという。
 安信さんの父は鶴岡の開業医で、長男が跡を継いだ。三男の安信さんは旧制鶴岡中学から旧制山形高校理科乙類に進学し、さらに大阪帝国大学医学部に進み、その後、勤務医になった。茨木さんと安信さんの結婚式は鶴岡の料亭「新茶屋」で行われ、26年間の結婚生活ののち、安信さんは肝臓がんで他界した。
 以後、30年以上、茨木さんは安信さんとの思い出がいっぱいの東京・東伏見の家でひとり暮らした。

 茨木さんは小学5年生の時に母を結核で亡くしている。エッセイ「東北弁」のなかで、茨木さんは母の庄内弁にふれ、家のなかではいきいきしたお国言葉を駆使し、外では標準語を使っていたが、標準語は得意ではなく寡黙になりがちだった、と書いている。庄内弁は語尾に「のう」をつけるのが特徴で、穏やかなやわらかさがある。
 母がいなくなっても、茨木さんは2歳離れた弟の英一さんと春休みや夏休みには、母の実家で長く過ごした。そして14歳の時、ひどく寂しそうに見えたばばさまに「ばばさまが一番幸せだったのはいつ?」と突然問いかけた。予想外だったのは、ばばさまが間一髪入れず「火鉢のまわりに子供たちを座らせて、かきもちを焼いてやったとき」と答えたことだった。
 父の愛情をたっぷり受け、強い絆で父と結ばれていた茨木さん。育った愛知の吉良町と同じように庄内の土地はもう1つのふるさとだった。あと半月もすれば庄内に雪が降り始め、雪また雪の日々が続く。

 

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