辰雄との思い出多い追分で生涯を閉じる
堀 多恵子さんのこと |
文筆家で、堀辰雄夫人の堀多恵子(本名・多恵)さんの訃報に接したのは4月中旬だった。新聞の社会面 下に、10行ほどの小さな死亡記事が載った。96歳、ちょうど辰雄の倍を生き、軽井沢町追分の自宅で亡くなった。
多恵子さんは昭和12年夏、静養を兼ねた避暑に、弟と一緒に追分の油屋旅館を訪れた。油屋旅館は辰雄の常宿で、前年から『風立ちぬ 』の終章を書くために旅館で冬越ししていたが、書けないままだった。2人はそこで出会い、翌年、室生犀星夫妻の仲人で結婚した。
すでに辰雄は結核を患い、結婚の2カ月前には鎌倉の深田久弥の家で喀血して倒れ、入院した。辰雄をはじめ周囲のだれもが婚約の破棄を考えたが、多恵子さんはいまこそ辰雄に自分が必要と思ったという。結婚後は軽井沢に別 荘を借りて新居にした。
16年からの数年間は、2人にとって一番心満ちた時だった。辰雄は七年越しでやっと『菜穂子』を書き上げ、第1回中央公論賞を受賞した。欲しかった軽井沢の山荘(1421番)が売りに出され、川端康成に借金して購入し、初夏から秋にかけて毎年過ごした。2人で更級の里や上高地、木曽路などを訪ねたりもした。
その後、油屋旅館のすぐ隣に家を借りて東京から疎開し、戦後はそのまま闘病生活に入った。一進一退の病状に一喜一憂しながらの日々。26年に追分に辰雄の終の棲家となる15坪の小さな家を建て、2年後、辰雄は48歳の生涯を閉じた。
辰雄の死後、多恵子さんは役目を終えたように感じ、生きる希望を見失いかけた。ところが、辰雄の友人たちに遺されたノートの整理を頼まれ、忙しく過ごさざるを得なかった。その後も辰雄が多恵子さんに宛てた手紙や、辰雄との思い出、辰雄の師や友人たちのことなどを本にまとめ、多恵子さんの知る辰雄を伝えた
たまに軽井沢に出かけると、無意識にあちこちで辰雄と多恵子さんの姿を感じる。旧軽井沢銀座のつるや旅館は師と仰ぐ芥川龍之介や室生犀星などが利用し、辰雄たちも新婚時代、貸別荘を探すために泊まった。『木の十字架』に登場する水車のある道はその一本奥で、聖パウロ教会がある。
裏に幸福の谷が広がる万平ホテル近くには、室生犀星が亡くなる前年まで毎夏過ごしていた別 荘がある。塩沢湖畔の軽井沢高原文庫の敷地内には旧軽井沢から移築した辰雄の山荘(1421番)がある。その山荘は、辰雄の本の装幀や挿絵を描いた深沢紅子夫妻の夏のアトリエにもなった。湖畔近くには深沢紅子の野の花美術館も建っている。
それから追分。油屋旅館は辰雄と多恵子が出会った年の秋に火災で全焼し、現在の建物はその翌年に建てられた。立原道造は辰雄をきっかけに追分を訪れて魅せられ、油屋旅館の再建資金の工面に奔走した。
油屋旅館から2分ほど歩くと堀辰雄文学記念館がある。辰雄が亡くなるまで約2年暮らした住まいが移築されていて、そばに死ぬ 10日前に完成した書庫がある。辰雄は布団の中で手鏡を使って映し見た。
訪ねた場所で辰雄と多恵子、関係するさまざまな人たちの面影に不意にふれ、それがどんどん繋がっていく。何気ない小さな曲がり角が、作品に登場しているから面 白い。それが軽井沢の楽しみの1つで、また出かけたくなる。
「ご主人を亡くすと、そこに住みたくないという方がいらっしゃいますね。でも、私は思い出があるからこの追分にいたいなあと思うの。死ぬ ときは追分で死にたいと思う」。多恵子さんは生前、語っていた。いまごろ、1人で過ごした48年間の積もる話を、辰雄としていることだろう。
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