055回 花森 安治さんのこと(2011.11.30)

大越 章子

 

画・松本 令子

いまも色あせていない職人の手仕事

花森 安治さんのこと

これは あなたの手帖です
いろいろのことが ここには書きつけてある
この中の どれか 一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮らしに役立ち
せめて どれか もう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮らし方を変えてしまう
そんなふうな
これは あなたの暮らしの手帖です

 「暮らしの手帖」の表紙を開くと必ず、右の頁にこの散文が記されている。初代編集長の花森安治さんが書いた宣言文で、昭和23年9月の創刊号から毎号、掲載されている。新しい「暮らしの手帖」が出る度に、この呪文のような文章をまず確認する。たぶん、それは作り手も同じで、表紙をめくって襟をただしている。
  花森さんは自らも取材をし、写真を撮り、原稿を書いて、レイアウトをし、表紙絵を描き、カットを画き、校正をして、何から何まで自分の眼を通 して自分の手を加え、ぎりぎりまで印刷会社に渡さなかったという。
  「暮らしの手帖」100号の巻末には「雑誌作りというのは、どんな大量 生産時代で情報産業時代で、コンピュータ時代であろうと、所詮は〈手作り〉である。それ以外に作りようがないということ。ぼくはそう思っています。だから、編集者はもっと正しい意味で〈職人(アルチガン)〉的才能が要求される」と書いている。
  たえずものを考え、手を動かし、何かをつくる。花森さんは、日本文化の特質は職人にあるという信念を持ち、自ら職人であろうとした。
  花森さんは1911年(明治44年)に神戸で生まれた。神戸3中から1浪して松江高校に入学した。神戸3中の1年先輩には、映画評論家の淀川長治さんがいる。東大の美学科で西洋衣裳史を学び、大学新聞の編集部員でもあった。
  戦争中は大政翼賛会の宣伝部で仕事をし、戦後、暮らしの手帖社の初代社長の大橋鎭子さんから「女の人の役に立つ出版をしたい」相談され、5人で衣裳研究所をつくり、「スタイルブック」を出版した。その後、似たようなスタイル誌がほかからぞくぞく出され、「暮らしの手帖」を創刊した。
  創刊号にこんな文章がある。
 美しいものは、いつの世でもお金やヒマとは関係ない。みがかれた感覚と、まいにちの暮らしへの、しっかりした眼と、そして絶えず努力する手だけが、一番うつくしいものを、いつも作り上げる。
  花森さんはできるだけやさしい言葉で、大切なことをさりげなく伝えた。詩のような独特のリズムのある文章でわかりやすく、骨太のアイデンティティを感じさせる。言葉の響きを大事に簡潔さを心がけ、自分の法則を持っていた。
  どれくらい前からだろう。「花森ノート」をつくり、本や雑誌で目にした花森さんのことや言葉、気に入った文章などを機会あるたびに書き留めている。まだまだノートは未完成だが、たまにぴらぴらめくり、その時々、教えられたり、叱られたり、励まされたり。そして、あこがれてもいる。
  花森さんは1987年、心筋梗塞で亡くなった。65歳だった。100号の巻末に「死ぬ 瞬間まで編集者でありたい」と書いた通り、最期まで暮らしの手帖の編集長だった。
  絶筆は「人間の手について」で、原稿は仕上がっていなかったが、ナイフで鉛筆をきれいに削ること、はしをちゃんと持つこと、ひもをきちんと結べることも人間の手のおおきな勉強で、そういうことも、なにが美しいのか、なにがみにくいのか、という美意識をつちかってゆくものなのだ、と書いてあった。
  「ジャーナリストにとって一番怖いのは甘えと慣れ」。花森さんは自身が語っていた通 りの生き方をした。生きていれば、ちょうど100歳。花森さんの手仕事はいまも色あせていない。

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