

普通の人々の静謐なくらしの物語を感じる
フェルメール巡礼 |
きっかけは何だったのか、よく思い出せないが、読者の武田三郎さん(故人)が編集室に来て、フェルメールがどんなに素晴らしいかを熱く語ったことだったかもしれない。2007年の秋に、新国立美術館でフェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見た。36点とも言われるフェルメール作品で、最初に見た作品だった。
特にフェルメールファンではなかった。でも、その時にいっしょに並べられていた、ほかのたくさんのオランダ風俗画はまったく覚えていない。プロローグのように構成や遠近法、独特の色彩 についての丁寧な説明のあと、奥の照明を落とした部屋にぽつり、日本初公開の「牛乳を注ぐ女」があった。
およそ45×40cmのカンヴァス。想像よりずっと小さかった絵の前に、人だかりができていた。「対角線上の右上は光に満ちた明るい空間、左下はオブジェ群、中央に時間を象徴する女性で、透視図法的に…」と、プロローグで学んだにわか知識は一瞬に吹っ飛び、ただただその絵に見入った。
その翌年には東京都美術館でフェルメール展が開かれ、「小路」や「リュートを調弦する女」「手紙を書く婦人と召使い」など七点のフェルメール作品が展示された。期間が長かったこともあって、東京に出かけたついでに見ることができた。
フェルメールが画家として活動したころ、オランダは長いスペイン支配から脱して、市民社会が台頭した時期で、絵画も宗教画から風景画や静物画、風俗画に変わりゆく時代だった。人物画が多いフェルメールの作品のなかで、人生のほとんどを過ごしたデルフトの風景を描いた「小路」が印象に残った。
今年のひなまつりは、亡くなった祖母に「あなたの守り本尊」と言われていた寺をお参りし、それから渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「フェルメールからのラブレター展」を見た。「青衣の女」と「手紙を書く女」、「手紙を書く婦人と召使い」が1つの壁に1枚ずつ展示してあった。
気がつくと、30数点の現存するフェルメールの作品のうち十点を見ていた。
“フェルメール巡礼の旅”と称し、フェルメールの作品をすべて見ようと試みる人は多い。武田さんもそうだったし、作家の有吉玉 青さんは作品を訪ねた旅の記録を『恋するフェルメール』にまとめている。作品数が限られているから巡礼しやすいとも言われるが、フェルメールの絵はそうしたくなる魅力がある。
ただその魅力はうまく説明できない。有吉さんも著書のなかで「どうして好きなのと聞かれるが、どうして好きなのかわからない」と書いている。それでも東京での展覧会を知ると会いに行きたくなり、絵の前に立つと時間を忘れてたたずんでしまう。
たぶん、普通の人々の日常のひとこまを、細やかに光と影を使って独特の色彩 で描き、静謐さを醸し出しているからかもしれない。絵に流れる時間にはそれぞれ物語が漂い、見る人によってストーリーは違う。それに絵自体が重ねてきた時間の経過もある。
例えば「青衣の女」はゴッホも見ていて、「レモン黄、淡い青、パールグレーの絶妙な諧調で構成されている」と述べている。フェルメールの青はアフガニスタン産のラビラズリ鉱石を砕いて作られたウルトラマリンブルー。その色をゴッホも使ったという。
そんな絵の裏側や、感じた物語の話を共有したいらしく、フェルメールの絵の前ではおしゃべりが多い。耳をすましながら絵を眺めるのもまた楽しい。
6月末には「真珠の耳飾りの少女」が東京都美術館にやって来る。
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