084回 メアリー・ポピンズ(2014.5.16)

大越 章子

 

画・松本 令子

自分の物語の主人公になる

メアリー・ポピンズ

 パメラ・リンドン・トラヴァース。名前だけではぴんとこないかもしれないが、メアリー・ポピンズの作者と言えば、うなずく人が多いだろう。 
 東風にのってロンドンの桜町通り17番地のバンクス家に現れた乳母のメアリー・ポピンズと、バンクス家の子どもたちや桜町通 りで暮らす人々との不思議な日々のはなし。その物語は1934年から88年まで54年間にわたってシリーズで書かれ、64年にはウォルト・ディズニーがミュージカル「メリー・ポピンズ」として映画化している。
 娘の愛読書を読み、たちまちメアリー・ポピンズに魅了されたディズニーだったが、トラヴァースがなかなか映画化に応じず、20年近く説得を続けてようやく制作にこぎつけた。この春、公開された映画「ウォルト・ディズニーの約束」はトラヴァースの生い立ちにふれながら、ディズニーの思いや映画制作の裏側を描き、映画「メリー・ポピンズ」の誕生秘話を伝えている。 
 トラヴァースが自伝的なことを話すのを好まなかったため、物語や映画、音楽に隠れて作者の人生はこれまで目立たなかったが、この映画をきっかけにトラヴァースが残した言葉をたどると「『メアリー・ポピンズ』がわたしの人生です」に行きつく。

  トラヴァースは1899年、オーストラリアのクインズランド州で生まれ育った。三姉妹の長女で、母が妹たちにかかりきりで寂しい思いをした。その孤独感と周りの自然、アイルランドに傾倒していた父から聞かされたアイルランド伝説が、想像力を養わせたという。
 大好きだった父は8歳の時、仕事でのトラブルからアルコールに依存するようになり、急性肺炎で亡くなり、夫の死を受け入れられなかった母は3年後、入水自殺未遂を起こした。トラヴァース自身、父の死を認めるのに六年かかった。
 寄宿舎での学校生活を終え、タイピストとして働きながら、トラヴァースは舞台女優を目指し、傍ら雑誌に詩を投稿した。その後、単身イギリスに移り住み、短編を雑誌に発表していたが体調を崩し、回復しつつあった時期に、シリーズの最初の物語『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を書き始めた。
 10代のころ、メアリー・ポピンズという名の女性が子どもたちを寝かしつける短いおはなしを書き、新聞に掲載されたことがあったという。そのメアリー・ポピンズがよみがえり、トラヴァースに物語を書かせた。 

 生前、トラヴァースはこんなことを語っていた。
 「わたしたちはおそらく、生まれながらにしておとぎ話を知っているのだろう。それはおとぎ話の記憶が遠い祖先からずっと血に流れているからで、初めておとぎ話を聞いた時に感じる衝撃は、懐かしさからくるものだ。知らず知らずのうちに知っていたものが、突然、思い出される。人間は結局、どんな物語であれ、自分の物語の主人公になるしかないということを、わたしたちが理解するためにおとぎ話は語られねばならない」
 完成した映画「メリー・ポピンズ」を見た際には大泣きしたトラヴァースだが、周囲の絶賛をよそに期待を裏切られた感じだった。亡くなる五年前のインタビューでも「場面 によってはよかったが、全然、雰囲気が違う」と話している。
 それでも続編の映画の制作が2度進められたが、一度目はディズニーの死で、2度目はトラヴァースの理想が高すぎで実現できなかった。ほんとうのメアリー・ポピンズは本のなかにいて、読む人々が想像を広げ、それぞれが自分を見つめるのだろう。

 トラヴァースの人生を知ると、メアリー・ポピンズのシリーズをきちんと読んでみたくなる。岩波少年文庫の挿絵は、『くまのプーさん』の挿絵で知られているE.H.シェパードの娘のメアリー・シェパードが描いている。

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