

『赤毛のアン』は花子とミス・ショーの友情の証
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9月初めの「花子とアン」に、ついに『Anne of Green Gables』(赤毛のアン)が登場した。第一次世界大戦の勃発直前で情勢が不穏になるなか、カナダに帰国することになった修和女学院のスコット先生が「友情の記念に」と、日本にいる間こころの友だったこの本を、花子に手渡した。
ほんとうは花子が教文館で編集者をした時代の同僚で、カナダ人宣教師のミス・ロレッタ・レオナルド・ショーから贈られたのだが、時代背景はドラマ通 りで「いつかまた、きっと平和が訪れます。その時、あなたの手でこの本を日本の少女たちに紹介してください」と渡された。
L・M・モンゴメリの『Anne of Green Gables』が出版されたのは1908年。39年に花子の手に渡り、それから4年後、体調を崩して休養をとっていた時にミス・ショーの言葉を思い出し、病床から起き上がって翻訳を始めた。
戦時下にも翻訳を続け、空襲の時は原書と原稿を抱えて防空壕に逃げたという。戦後間もなく訳は完成したが、出版されたのは52年、原書を手渡されてから13年が経っていた。
その村岡花子訳の『赤毛のアン』を、小学5年生の時に初めて読んだ。手伝いに男の子が欲しかった老兄妹の家に、手違いで孤児院からやってきた赤毛の女の子の物語、という既成の先入観があって本の前を素通 りしていたが、ある日、意識して手に取り開いた。
描かれていたのは、日々繰り返されるつつましくて温かな、きちんとした生活の幸福感だった。帰る家があって家族がいて、季節とともに自然は移ろい、時に悲しい出来事も起きる、当たり前の日常にいとおしさを感じた。
もちろんそれは、幼いころから覚えたお話を従姉妹などに話して聞かせ、使い捨てられたメモのうしろに言葉や物語を綴っていたモンゴメリの創作センスに違いない。けれどbosom friendを「腹心の友」とした、村岡花子の英語力と日本語の表現力に負うところは大きい。
それからはアン・シリーズを次々と読んだ。そのころ土曜の午後は、仲よしの友達とよく図書館に出かけ、好みの本を3冊ずつ借りていた。道すがら、リンドグレーンのやかまし村・シリーズは楽しい、ケストナーではやっぱり『ふたりのロッテ』が好き、ファージョンの本も気になるなどと物語の話をした。
それでも、ふたりの一番のお気に入りはアン・シリーズで、お化けの森を探し、パフスリーブや紫水晶にあこがれ、お互いを腹心の友と思い、アンの言葉、例えば「何かを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたるのよ」などにときめいた。
仲よしのその友達とは中学校から別になったけれど、文通などをしてずっと連絡を取り合っている。3人の娘の母になった友達は、子どもたちも大きくなって時間に余裕ができ、昨秋は久しぶりに会って食事をした。ひとしきり互いの近況報告をした後は、やはり物語の話だった。そういえば新婚家庭に遊びに行った時、「ちゃんと連れてきたのよ」と言って、隣の部屋から持ってきたのはアン・シリーズの10の本で、顔を見合わせて大笑いした。
花子に『Anne of Green Gables』を贈り、日本を離れたミス・ショーはカナダに帰った翌年、病気で亡くなった。いまも多くの日本人に愛されている『赤毛のアン』はふたりの永遠の友情の証に思える。
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