前人未踏の一筆チャレンジ
日本百名山 |
このあいだの朝刊に、「夢の続きを語ろう」というテーマの全面 の企画広告で、アドベンチャーレーサーの田中陽希(ようき)さんが大きく取りあげられていた。NHKBSプレミアムで昨年春から晩秋まで5回にわたって放送された「日本百名山一筆書き踏破」のあの陽希さんだ。
屋久島の宮之浦岳から北海道の利尻岳まで、日本列島を北上しながら208日と11時間かけて、深田久弥の日本百名山のすべての頂上を制覇した。それも自動車や電車などは使わず、陸は歩き、海はシーカヤックで渡る、前人未踏の挑戦だった。
倉本聰さんのドラマ「北の国から」に父が影響を受け、陽希さんは家族で北海道富良野市に移り住み、育った。当時、6歳。成長するにつれ、クロスカントリースキーにのめり込んでいった。大学を卒業して、体育の先生を目指しているなかでアドベンチャーレースと出会い、方向を転換した。
レースは山や海、川など自然をフィールドに、数日以上かけて多種目のアウトドア競技で挑み、チーム戦で行われることが多い。いまは群馬県みなかみ町に拠点を置いて、国内唯一のプロチームのTeam EASTWINDの主力メンバーとして活躍している。
2年前、九州の祖父に会いに行った時、阿蘇山と九重山、祖母山を2泊3日で縦走し、帰りの飛行機の中で「百名山を徒歩のみで、海はシーカヤックでわたって、一筆書きで行けたら」と思いつき、周囲に相談していくうちに具体化していった。
昨年4月1日、午前零時に屋久島の安房漁港を出発し、百名山の一筆書きの旅は始まった。中旬にはきっかけになった祖母山、阿蘇山、九重山を登り、6月半ばには大雪渓の穂高や、槍ヶ岳の山頂にたどり着き、3分の1を踏破。7月初めには50番目となる浅間山、中旬には日本最高峰の富士山に登頂した。
スタートからちょうど4カ月が過ぎた8月初めには、それまでの疲れがどっと出たようで、熱が上がったり下がったりを繰り返し、病院にも2度行った。冬の到来前に利尻岳の山頂にたどり着かねばならず、気持ちは焦るものの体は動かない日々が5日ほど続き、武尊山から1週間後、ようやく次の谷川岳の山頂を目指したこともあった。
猛暑のなかでエンジンをフル回転し、燧ケ岳に登った日に会津駒ヶ岳の山頂にも立ち、磐梯山と安達太良山も1日で2つ踏破した。本州最後の山、岩木山に登った時は目の前に雷が落ち、荷物やストックを投げ捨てて茂みのなかに身を潜めた。
そしてシーカヤックで津軽海峡を渡り、ふるさとの北海道の台地に立った。残るは九つの山。けれどそう簡単にはいかない。2つ目の幌尻岳辺りから右足に痛みを感じるようになり、実家で休養してのぞんだ十勝岳は、4kmほど歩いて断念した。
出発したのに引き返すのは、この旅で初めてだった。さらに6日間休養して十勝岳の山頂に立ち、10月23日に稚内の漁港から利尻島を目指してシーカヤックをこぎ出し、荒波のなか9時間ほどかかって利尻島に着いた。3日後、利尻岳を踏破し、一筆書きで百名山を制覇した。
同じNHKBSプレミアムで毎週「にっぽん百名山」を楽しみに見ているけれど、陽希さんの一筆書きは、同じ山を登るのでも面 白さが違う。陽希さんのパーソナリティや前人未踏のチャレンジとアクシデント、それにその土地の風景やさまざまな出会いも垣間見え、ドラマ性があるからだろう。
深田久弥の『日本百名山』が出版されたのが1964年。昨年はちょうど50周年だった。一筆書きをきっかけに、再び『日本百名山』を読み始めている。
1つ目の「利尻岳」には、島全体が1つの山を形成し、その高さが1700mもあるような山は、日本には利尻岳以外になく、屋久島も全島が山で2000m近い標高だが、いくつもの峰が郡立していて、こんなみごとな海上の山は利尻岳だけ、と書かれている。
百名山の出版から7年後、深田久弥は山梨県の茅ケ岳山頂付近の尾根で急逝した。享年68。墓石の裏面 には敬慕していたスタンダールの墓碑銘「生き、書き、愛した」にちなんで「読み、歩き、書いた」と刻まれている。深田久弥にとって山は、世俗から精神を解き放つ場だったという。
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