111回 雨ニモマケズ(2016.9.30)

大越 章子

 

画・松本 令子

人生のなかで勇気づけられる賢治のこころメモ

雨ニモマケズ

 この春から朝、Eテレのテレビ体操をしている。わずか10分の軽い体操だけれど、寝起きの体を目覚めさせ、ほぐしてくれる。テレビはそのままつけておいて、雑事をしながら「みんなのうた」を聞き、ポストから新聞をとってきて「にほんごであそぼう」と「0655」を見る。その時々、日本語のいろんな表現や歌、アニメが、上質な変化球で楽しめる。
 このあいだは、能楽師の野村萬斎さんが芥川龍之介の「鼻」をシリーズで語り、元大関の小錦が30の相撲の決まり手をリズミカルな歌で伝授。美輪明宏さんが扮する太陽「みわサン」は、坂本龍馬の言葉「日本を今一度、せんたくいたし申候」を味わい深く紹介していた。 
 それでも、いわき賢治の会の会員としては、やっぱり宮澤賢治の作品が気になる。ベベンの風の又三郎や星めぐりの歌…。なかでも各地の方言での「雨ニモマケズ」や、普通 の人々が自分の言葉に置き換えた「わたしの雨ニモマケズ」は土地柄や人柄が現れ、聴いているとそれぞれ違った風景や思い、空気を感じる。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ

 賢治が黒い手帳に「雨ニモマケズ」を書き留めたのは、昭和6年(1931)11月。この年の2月に東北砕石工場の技師となり、9月、石灰の宣伝で上京後、間もなく発熱して、帰郷を余儀なくされた。その療養中に鉛筆書きしたもので、字句を修正した痕跡も残り、賢治のこころのメモに思える。
 2年後、賢治は亡くなり、翌年の2月、東京・新宿で開かれた賢治友の会に、弟の清六さんが遺品の大きなトランクを持参し、ポケットから両親や弟妹宛の2通 の手紙と手帳が見つかった。最初の頁には「昭和六年九月廿日 再ビ 東京ニテ発熱」と記されていた。
 発見から2年後、羅須地人協会(賢治が花巻農学校を退職して、自炊しながら農耕生活をした家)があった跡に、賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建てられた。詳しいことは不明だが、長い詩なので「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ」からうしろの部分が、高村光太郎の書で刻まれている。
 賢治は生前、一度だけ光太郎と会っている。大正15年の暮れ、チェロを習うために上京した際、夕方暗くなるころ、光太郎のアトリエを訪ね、玄関先でほんの少し話をした。終戦の年の4月にアトリエは空襲で焼け、光太郎は賢治の実家に疎開したものの宮澤家も空襲に遭い、その後、花巻郊外の粗末な小屋に移り住んだ。 

 賢治の命日の9月20日には毎年、詩碑「雨ニモマケズ」の前で賢治祭が開かれている。賢治の詩の朗読や歌の合唱、野外劇などが行われるが、まず初めに必ず「雨ニモマケズ」が朗読される。明治29年(1896)生まれの賢治にとって、今年は生誕120年の記念の年で、わたしは参加できなかったが、いわき賢治の会の仲間たちが連れ立って出かけた。
 「雨ニモマケズ」は教科書にも載っていて、感受性が豊かな時代にこころに深く刻まれ、それからの長い人生のなかで、励まされることがある。東日本大震災が起きた時も、多くの人々が口ずさみ、勇気づけられた。
 トランクから見つかった黒い手帳は、研究者たちの間で「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれている。好みの手帳を1つ用意して、ある日ある時、言葉が現れたら書き留めておくといい。それがいつの日か「わたしの雨ニモマケズ」になるから。

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