

沼に枝を広げる一本桜に丹後を思う
丹後沢さんぽ |
桜が咲くのを待って、お城山の丹後沢を散歩した。晴れた日の午後、桜は八分咲き。磐城平城の本丸があった物見ヶ岡に通 じる道を丹後沢公園に折れると、風景も流れる時間の速度も一変する。桜並木や沼を眺めながら、長い木道の階段をゆっくり下りた。
久しぶりに丹後沢に足を向けたのは、春の彼岸の中日にいわきPITで行われた、ドラマリーディング「この土手、ゆるがじ」(原作は夏井芳徳さん、脚本と演出は小林基さん)にふれたからだった。磐城平城を築く際、人柱になったと言われている菅波村の95歳の箱崎丹後と、丹後沢を描いた台本を音読する劇で、スクリーンに映し出されたラストの桜吹雪が目に焼きついている。
関ヶ原の戦いで徳川家康に協力しなかった岩城貞隆が去って、1602年(慶長7)、鳥居忠政が飯野平城(大館)に入った。忠政の父の元忠は関ヶ原の前哨戦の伏見城の戦いで討ち死にし、それが関ヶ原の勝利につながり、功績を認められてのことだった。
その際、家康は適地を見つけて、城を築くように命じたという。忠政は飯野平城の東の岩石段丘に、翌1603年から12年かけて磐城平城を築いた。そして、その物見ヶ岡の本丸と二の丸、三の丸の間にあった後沢という大きな沼の流れを堰き止め、内濠を造った。
ところが何度、堰を造っても、大雨で崩れてしまう。そのため陰陽博士に占わせたところ「ここには大きな亀が棲んでいて、雨が降ると鎌田川(夏井川)へ通 うからです。どうしても造りたければ、人柱を立ててはどうでしょう」と言うのだった。
そこで白羽の矢が立ったのが箱崎丹後だった。「後沢の土木工事の頭取に」との話に、人柱にさせられることを察した丹後は、人柱になって末代まで名前を残そうと覚悟を決めた。「どうぞ私を人柱に立ててください。もし、丹後沢と名づけて私の名を残してくださるなら、ほかに望みはありません」と、言ったという。
100分ほどのリーディング劇の最後、丹後が人柱となり、桜吹雪が舞った。劇団員でもある4人のキャストは、それぞれ複数の役を受け持ち、時代背景や当時の磐城平藩、それに丹後が人柱になった理由、丹後の日常や生きざまも浮き彫りにした。
言い伝えでは、大雨で堰が崩れないように相談された丹後が「着物に横継ぎをあてている者を人柱に立てれば」と言い、早速、探してみると、丹後自身の縞の着物に横継ぎがあててあった、という説もある。それはさておき、丹後の潔さが桜吹雪と重なって印象深く、もの悲しくなったが、終了後、すがすがしさが残った。
お天気がよかったせいか、丹後沢では予想に反してたくさんの老若男女が、昼下がりを過ごしていた。時折、うぐいすが澄んだ声で鳴き、桜だけでなく、タンポポ、オオイヌノフグリ、ツスミレなどが咲き、ツクシの姿もあった。
お年寄りたちが賑やかに談笑している。高校生たちはベンチに腰かけて、パンを食べている。住宅地からの坂道を自転車で下りてくる女性もいる。沼を見下ろせる木道の踊り場で、写 真を撮る外国人もいる。それぞれが、春でいっぱいの空間を楽しんでいた。
沼に沿って端まで歩き、そこから来た道を引き返した。沼に枝を広げる1本の桜の木は、ドラマリーディングの桜吹雪を彷彿させ、丹後の桜に見えた。高校に入学して間もなく、地理の2時間目の授業で、地図を片手にみんなでお城山を散策したことも思い出した。
400年前、人柱になったという箱崎丹後。願い通りにいまもその名は残り、いにしえを思い起こさせ、想像を広げる、しっとりとした場になっている。
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