

どんな時も弾き続けてきたことが今につながる
「フジコさんのピアノ |
平のまちポレいわきで映画「フジコ・ヘミングの時間」を観た。監督の小松莊一良さんが自らカメラを持って、2015年から18年にかけて撮影したドキュメンタリーで、フジコさんの日常を丁寧にありのままとらえ、過去にさかのぼり、未来をも見つめている。
もともと小松さんはミュージシャンを追いかけ、普段は目にすることのできない日常にまでカメラを向けて、その人をまるごと伝えてきた。フジコさんの撮影ではカメラを回し続け、空気のような存在になって素のフジコさんを引き出した。
あまりに飾らない自身の姿に「映画はわたしが死んでから発表してほしい」と、フジコさんは言ったという。
フジコさんはピアニストの母とロシア系スウェーデン人の画家で建築家の父との間に生まれ、5歳の時に一家で日本に帰国し、母の手ほどきでピアノを始めた。1回に2時間、それが日に数回繰り返されるスパルタレッスンだった。やがて父はスウェーデンに帰ってしまい、母がピアノ教師をしてフジコさんと3歳下の弟を育てた。
16歳の時、中耳炎をこじらせて右耳の聴力を失ったが、それでも17歳で初めてのリサイタルを開き、母と同じ東京藝術大学に進学。卒業後、資金や国籍の問題をクリアして、28歳の時、ようやくベルリンに留学した。30代の半ば、バーンスタインの支援を得て開催にこぎつけたウィーンでのリサイタルの直前に風邪をこじらせ、飲んだ薬のせいで左耳まで聴こえなくなり、ウィーン・デビューは惨憺たる結果 に終わった。
その後、耳の治療をしながら生活のために音楽教師の資格をとり、ドイツでピアノ教師をしながら欧州各地で演奏活動を続けた。聴力は左耳だけ4割ほど回復した。母の死から2年後、1995年に日本に戻り、99年、NHKの「フジコ~あるピアニストの奇跡」が放送され、注目されるようになった。
それから約20年経て「フジコ・ヘミングの時間」はつくられた。あのころ60代後半だったフジコさんは80代半ばとなり、10年ほど前から海外でもコンサートを開き、その数は国内外で年間60本にもなる。
映画は「人生とは時間をかけて私を愛する旅」の言葉で始まる。そこには素顔のフジコさんがいる。毎日、4時間のピアノ練習を欠かさず、腱鞘炎になった手首に10年前の湿布をはって「いつまで続けられるか」と呟く。
街で物乞いする人を見るとお金を渡し、動物愛護の活動も積極的にしている。人生にはそれぞれできることがあって、それをして初めて天国に行けるから。フジコさんにとって大切なのは小さないのちへの愛情や行為を最優先させることだ。
失意のどん底で救ってくれたのは猫だった。自宅でたくさんの猫を飼っている。ある時、子どもを育てる手続きをしようとしたが「独身ではだめ」と言われ、それで猫になったという。
リハーサルでオーケストラと合わず、指揮者に何度も「ピアノが速い」と指摘を受けることもある。過密スケジュールと体調のせいで耳が聞こえなくなる。本番直前のステージのそででは手を合わせて祈る。
リストの「ラ・カンパネラ」を納得いくまで繰り返し練習する。弾く人の日常の行いが表れる大切な曲で、自身が弾く「ラ・カンパネラ」が一番好きだ。
人生を旅しているうちに、フジコさんは「しあわせは待っているものではない」とわかった。しあわせは自分でつくるもの。そして、人間は悲しみやセンチメンタルなこともあるからいいと言う。どんな時もピアノを弾き続けてきたことが、フジコさんのいまにつながっている。
純粋にピアノが好きで、ピアノの前ではすべてがさらけ出され、音に表れる。久しぶりにフジコさんのピアノをじっくりと聴きたくなった。
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