134回 「My way」のこと(2018.9.15)

大越 章子

 

画・松本 令子

きょうも自分の道をひとりひとり生きている

「My way」のこと

 吉田勉子さんの半生をたどった「My way」が前号の372号で終わった。昨年の5月31日号(342号)の特集を「My way プロローグ」として、まず勉子さんのファミリーヒストリーを紹介し、次の号から半生を巡り始め、30回の連載になった。
 そもそもは「勉子さんが出雲に避難している」と、耳にしたのがきっかけだった。2016年の夏に会って震災以降のことを取材した際、勉子さんの半生もさらっと聞いた。それまで何度も会っていたが、初めてふれた半生は興味深く、数カ月後に連載を相談した。
 年が明けて昨年の1月中旬から、本格的に取材を始めた。原戸籍や昔の写 真を見せてもらい、家族のこと、さらに父方の吉田家と母方の木村家のことから聞いた。プロローグで紹介したように、父方の祖父の吉田喜久蔵さんは四倉町白岩の農家の息子で、軍隊での衛生兵の経験から復員後に医者を志し、のちに無医村だった北海道・富良野の麓郷で診療をした。
 母方の祖父の木村清治さんは代々、医者の家系で、東京で医学を学んだあと、故郷の四倉町上仁井田で開業し、県会議員や衆議院議員、村長を歴任し、菩提寺の最勝院には銅像が建っている。福島県知事をした木村守江さんは清治さんの甥(弟の息子)で、娘婿でもある。どうりで勉子さんと守江さんは顔がとても似ている。
 取材は1回に4時間ほど、5時間近くに及ぶこともあった。ふたりともおしゃべり好きなので時々、あちこち脱線し、間にはコーヒーブレイクを持った。勉子さんの半生はもちろんだが、映画や本、旅、美術、テレビ番組、政治、教育など雑談も楽しかった。 
 次に会うまでに聞いたことをまとめ、時代背景や社会事象を調べ、会った時にはまず前回までの聞き忘れを投げかけ、それから先に進んだ。簡単な家系図や年譜を作り、取材が進むにつれ、年譜は詳細なものになっていった。
 勉子さんは驚くほど自身の歩みをよく覚えていた。あとでわかったことだが、46歳の夏、「読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー」に応募するため、わが半生を振り返って原稿用紙100枚ほどにまとめたという。行きつ戻りつしながら聞いていると、記憶が掘り起こされるようで、いい話があとからも次々出てきた。 
 笑ったり、せつなくなったりしながら書いた原稿はその都度、誤りがないかを勉子さんに確認してもらった。勉子さんは10月から3月まで出雲で過ごしているので、その間は郵便と電話、ファクスでやりとりした。 

 どこまで続くかまったくわからなかった連載を終えて、ふと自室の棚に置いてあるオルゴールに目が留まり、ネジを巻いて久しぶりに聴いた。学生だった30年ほど前、いとこの結婚祝いをデパートで探していて見つけ、奮発し_ト自分の分も求めた。
 木製の人形じかけのオルゴールで、男性がバイオリン、女性はフルートで「My Way」を奏でる。古いので人形の動きは少しぎこちないが、「ずっと自分の道を生きてきた」と、澄んだやさしい音を響かせる。 
 ひとりひとり自分の道を生きている。勉子さんのありのままの半生にふれ、少し立ち止まって自身の歩いてきた道を振り返るきっかけになったらと思う。勉子さんの生きる哲学は、フランスの小説家で評論家のアンドレ・モロワの著書『初めに行動があった』にある。いま、50年前に出版されたその岩波新書を読んでいる。

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