それでも世に問いたいと思ったら書いてほしい
梯 久美子さんのこと |
10月の末に仙台文学館で「せんだい文学塾」を受講した。毎月、著名な作家を講師に迎え、司会を兼ねた文芸評論家の池上冬樹さんと、前半は受講生が提出した小説やエッセイなどの作品の講評、後半は時々のテーマで対談する。10月の講師はノンフィクション作家の梯久美子さんだった。
梯さんといえば、二年前に出版された黄色い装丁の『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』の印象が強いが、島尾敏雄の『死の棘』を読んでからと思い、ふれられずにいた。でも、この夏に出された『原民喜―死と愛と孤独の肖像』を、時折、手紙で近況を伝え合っている盛岡の成子さんが送ってくれ、読んでいて梯さんに会いたくなった。
梯さんは熊本生まれの北海道育ち。北海道大学を卒業後、高校時代に詩を投稿していた「詩とメルヘン」の編集者になりたくてサンリオに勤め、24歳でフリーになった。2年後、大学時代の友達と編集プロダクションをつくった。
電話1台とワープロ2台で始めた共同経営の会社は、順調に伸びていった。しかし39歳の時に「このままでいいのか」と考え、会社を退いて文筆業に専念した。字を書いてお金になることなら何でもした。「AERA」の仕事で取材した丸山健二さんに勧められ、2005年に『散るぞ悲しきム硫黄島総指揮官・栗林忠道』でデビューした。
それからも『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和二十年夏、女たちの戦争』など、戦争を扱う著書を多く出版してきた。そのうちに、広島の原爆でいのちを落とした人々が着ていた衣服を撮った石内都さんの写 真集『ひろしま』に出合い、その姿勢に衝撃を受け、気づかされた。
石内さんを取材するなかで、原爆資料館での撮影にも立ち合った。赤いバラのボタンがついたピンクのブラウス。遠いと思っていた戦争が地続きになり、文章でも新しい伝え方ができるのではないかと思った。
文学塾のその日のテーマは「取材と資料探しの方法」。取材のことから始まった梯さんの話は、そのうち原民喜に移っていった。梯さんが初めて原を書いたのは2011年、東京新聞で連載した「百年の手紙」だった。原が晩年に知り合った祖田祐子さんに宛てた遺書を取りあげた。
詩人で作家の原は19通の遺書を残し、鉄道自殺で45年の人生を閉じた。当時、21歳だった祐子さんに宛てたその美しい遺書に、梯さんは胸打たれた。2014年の日経の連載「愛の顛末」でも、原と妻の貞恵のことを5回にわたって伝えた。
それが翌年、1冊の本になり、原の生誕110年と相まって、故郷の広島市の図書館で講演した。講演後、司書から「きょうの話を東京の祐子さんにも聴かせてあげたい、と話していたお客さんがいましたよ」と言われ、2年後、祐子さんを訪ね、取材して『原民喜』をまとめた。
結核で妻を亡くし、1年間だけ生きて妻のために美しい詩集をつくろうと考えた原だったが、疎開した広島で原爆に遭い、その後、広島で起こったことを書き続け、昭和26年に自殺した。
生前、刊行されたのは戦前に自費出版した『焔』と、亡くなる2年前の『夏の花』の2冊だけ。『夏の花』は原爆文学の名作として読み継がれている。梯さんは大学生時代に『夏の花』を読み、その後『日本人の手紙』のなかで祐子さん宛の遺書に出合った。
「書くことは厳しい。自分が傷つくこともあるかもしれない。でも、それでも世に問いたいと思ったら書いてほしい」。文学塾で梯さんはそう話していた。終了後、話しかけたかったが、その日はそのまま帰路についた。
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