141回 ミラクル檜枝岐(2019.5.16)

大越 章子

 

画・松本 令子

温和で平和な暮らしを楽しむ

ミラクル檜枝岐

 檜枝岐村の鎮守神社の境内に「檜枝岐の舞台」があって、年に3回、檜枝岐歌舞伎が上演されている。5月12日と8月18日の祭礼には奉納歌舞伎、9月の第1土曜日は観光客のための公演で、昨年9月に念願だった檜枝岐歌舞伎を見に行った。 
 開演は午後7時、その1時間前に開場になる。役場の駐車場に車を止め、村のメインストリートの国道352号沿いを歩いて六地蔵に手を合わせ、井籠(校倉)造りの板倉などを眺めながら境内に向かった。
 中心部の大通りなのに両側にはお墓も並んでいて、しかも星、平野、橘の3つの名字ばかり。村の人によると、住民のほとんどは3つの名字のどれかで、なかでも星さんが一番多いという。星さんは権力闘争に負けた藤原氏の子孫、平野さんが平家の子孫、橘さんが争いのなかで逃れざるを得なかった楠木正成の子孫と言われている。
 福島県側の尾瀬への玄関口で周囲を2000メートル級の山々に囲まれ、冬には3メートル以上の雪が積もる特別 豪雪地帯なので、隠れて暮らすにはいい場所だったのだろう。山あいの村にもかかわらず、人々が話す言葉はなめらかで京言葉に似ている。 

 檜枝岐はかつて漆ろうそくの蝋の主産地で、また材木の産地でもあり、幕府の直轄地だった。そのため盗伐などの監視をする口留御番所があったという。その案内板の隣に鎮守神社の一の鳥居が立っている。開場30分前というのにすでに長い列ができていて、くぐって7、8歩の所で立ち止まった。
 檜枝岐歌舞伎は江戸時代、お伊勢参りの帰りに江戸で見た歌舞伎を村人が見よう見まねで演じ始め、親から子へと伝えられ、270年ほど続いている。大正時代に「千葉之家花駒座」と一座の名前がつけられ、現在も30人ほどが受け継いで、役者から裏方までしている。
 開場の時間になって列が前に進み、二の鳥居をぬけると木造兜造りの舞台が現れる。社殿に向かって建てられた舞台の前にはシートを敷いた桟敷席と、社殿に上る石段や傾斜を上手に利用した石段席がある。まんなかぐらいの石段席に座って開演を待った。
 夕暮れとともに辺りはだんだん暗くなり、幻想的な雰囲気に包まれてくる。空がまっ暗になったころ舞台の幕が開いた。この日の演目は「絵本太功記 本能寺の段」。織田信長の本能寺での最後となる場面 の物語で、信長の家臣と森蘭丸を中心に描かれている。
 義太夫の語り、三味線の音、役者たちの動き…いつの間にかその世界に引き込まれ、そのうち天気予報通 り、雨が降ってきた。周囲の木立の枝葉が天然の傘になってくれたが、次第に激しくなり傘をさした。けれど舞台は平然と続けられ、終わるころには止んでいた。歌舞伎を演出する神さまの悪戯みたいだった。
 標高が940mほどなので、雨も相まって9月初めとは思えないほど手足が冷え、そのあと歌舞伎の余韻に浸りながら温泉で体を温めた。

 翌日、檜枝岐を散策して再度、鎮守神社の一の鳥居から社殿にかけても歩いた。前日には通 り過ぎただけの縁結びの橋場のばんばや、檜枝岐歌舞伎伝承館に立ち寄り、舞台と石段席も説明を読みながらゆっくり眺めた。 
 静寂が漂う昼間の境内は木漏れ日が射して気持ちよく、神聖な空気が漂っていた。石段を上って、社殿に手を合わせた。前夜には気づかなかったが、左隣に疱瘡神を祀った社殿がもう1つ建っていた。予定では御池まで車を走らせて尾瀬の木道を歩くつもりだったが、檜枝岐のミラクルな魔法にかかってのんびりしすぎ、その時間はなかった。
 檜枝岐には「みんな平等」という考えが浸透しているという。民俗学者の柳田國男監修の『檜枝岐民俗誌』にも「この村には飛び抜けた金持ちもいなければ極貧者もいない。だれもが中肉中背で温和で平和に生活を楽しんでいる」と記されている。それは地域が目指すところかもしれない。 
 千葉之家花駒座は年の初めに、その年の演目を決めて練習を始める。ちょうどいまごろは、さくらが咲き終わり、今年最初の歌舞伎の上演を終えたころ。もうすぐ尾瀬の山開きがされ、ミズバショウの季節がやってくる。

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