148回 1964年の東京オリンピック(2020.1.31)

大越 章子

 

画・松本 令子

あの日はきょうに、きょうは未来につながっている

1964年の東京オリンピック

 先日、ラジオから作家の杉本苑子さんの「あすへの祈念」の朗読が流れた。

 20年前のやはり10月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。
 天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスあたりには、東条英機首相が立っていて、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。
 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみであった。私たちは泣きながら征(ゆ)く人々の行進に添って走った。 
 きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩 に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。 
 私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。

 杉本さんは1964年の東京オリンピックの開会式を見て、「あすへの祈念」を共同通 信に寄稿した。ここにあげたのは要約文で、全文は1400字ほどあって臨場感が漂う。ラジオで偶然に全文を聴いて、昨年の大河ドラマ「いだてん」の学徒出陣壮行会の場面 を思い出した。
 1940年に予定されていた東京オリンピックが中止になり、戦争が本格化するなかで兵力不足を補うために学徒出陣が行われ、1943年10月、明治神宮外苑競技場(取り壊された国立競技場の前身施設)で壮行会が開かれた。中村勘九郎さん演じる金栗四三の弟子のマラソン選手(架空の人物)も雨が降るなか、外苑競技場から出陣して行った。 
 嘉納治五郎の志を受け継いで東京オリンピック開催に奔走した、阿部サダヲさんが扮した田畑政治は「オリンピックが開催できていれば、こんなことにはならなかった」と、悔し涙を流して学生たちを見送り「必ず東京でオリンピックをやる」と心に誓った。 
 敗戦後、田畑は日本のオリンピック復帰に力を注ぎ、先頭に立って1964年の東京オリンピックの招致活動をした。のちに「私にとってすべての道は東京オリンピックに通 じていた」と語っている。

 東京オリンピック開催の2カ月ほど前、ギリシャで採火された聖火はイスタンブール、ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、カルカッタ(現在のコルカタ)、ラングーン(現在のヤンゴン)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台湾と、中東・アジアの12カ国に飛行機で立ち寄り、それぞれの地で聖火リレーが行われた。 
 あえて日本軍が戦場にした国々を通るルートを設定したという。日本が平和な国に生まれ変わったことをアジアの国々に示し、聖火は台風のために1日遅れてアメリカの統治下にあった沖縄に着いた。2日かけて本島をぐるり1周し、飛行機で鹿児島へ。そこで火は4つにわかれて日本中を回り、皇居前で再び一つになり、翌日、最終ランナーの坂井義則さんが聖火台に点火した。坂井さんは1945年8月6日に広島県三次市で原爆投下の1時間半後に生まれた。すべて田畑が考えた。 

 1964年生まれなので記憶はまったくないけれど、東京オリンピックには何とも言いようがない親しみがある。1冊目のアルバムにはオリンピックの記念切手や絵はがきがたくさん張られていて、同級生には10月10日生まれもいる。歳を重ねるほど、開催までの道のりやできごとに興味がかき立てられ、時の流れのなかでのその時代を思う。 
 「敗戦から復興をとげた日本を示すオリンピック」と謳われた1964年の東京オリンピック。それから50年以上の歳月を経て振り返ると、過去と未来がぶつかり合った時代に感じる。日々は、気づかないぶつかり合いを繰り返しながら、きのう、きょう、あしたとつながっているのだろう。
 各国の選手たちがさまざまな服装でまぜこぜになって腕を組み、踊り、走りながら自由に、なごやかに入場した伝説の閉会式は演出されたものでなく、自然にそうなった。その光景を一番喜んで眺めたのは田畑政治に違いない。

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