住民として地域の変化を見続け伝える
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締め切り間近の日曜日、原稿を書くために早起きした。ダイニングテーブルにパソコンを置き、ストーブをつけて部屋を暖め、その間にお湯を沸かし、ハーブティーをいれた。香りをかぎながら、ゆっくり飲むと体がすーっと目覚め、キーボードをたたき始めた。
1時間半ぐらい過ぎたころ、すずめのさえずりが聞こえてきて、ひと休みにテレビをつけた。神戸新聞の記者たちを追ったドキュメンタリー番組が放送されていた。阪神・淡路大震災から25年が経ち、震災の記憶がない、震災を体験していない若手記者たちに、神戸新聞は当時の記者の経験を伝える勉強会を開いているという。
阪神・淡路大震災が起きたのは1995年1月17日。神戸新聞も本社が全壊し、2本の電話回線が残っただけで、ホストコンピューターなどすべての機能が失われた。記者たちは自身が被災者になりながら取材に走りまわり、京都新聞の協力を得て、震災当日も休刊することなく新聞を発行した。
家屋や建物、道路や鉄道の高架橋などが倒壊し、あちこちで火災が起きていた。「写 真を撮っている暇があったら助けんかい」。そう怒鳴られても記者たちは「ぼくたちにできることは、この現状を記録して伝えるしかない」と、シャッターをきり続けた。
翌日、ある記者は金ダライに火災で亡くなった祖母の遺骨を拾い集めている少年に出会い、そこで多くのいのちが失われたことを思い知らされた。少年にカメラを向けるも、涙が止まらなかった。いまもその地に立つと、涙が込みあげてくるという。
東日本大震災が起きたあと、最初にいわきの海岸を取材して歩いた時のことは忘れられない。かつて何度も訪れて見知っているだけに、しばらくぼう然と立ちつくし、それからカメラを構えてファインダーをのぞいたが、涙でかすんでよく見えなかった。そんなことを繰り返し、その日は遠巻きに数枚撮っただけで、あとは歩きまわるしかなかった。
次に行った時も、人にはカメラを向けられず、代わりにがれきのなかにいた、ぬ いぐるみのクマのプーさんを撮った(194号の1面の写真)。その後も通 い続け、いつしかファインダーから人の姿を追うこともできるようになった。
昨秋、台風19号の被害を受けた平窪などに行った時も、初めはただただ歩いて現地を確認し、堤防の決壊など被害の大きい場所をカメラに収めた。被害に遭った人たちに声をかけ、当時の状況を聞いたのはそのあと。まずは現場を歩き、何が起きたのかを自分の目で見るしかなかった。
阪神・淡路大震災が起きてどれくらい経ったころだろう。テレビのキャスターがこんなことを言った。「大きな災害が起きて、初めは各報道機関が連日こぞって、現況を報道するでしょう。しかし1カ月、3カ月と経つなかでだんだん報道は減り、そのうちあれから1年、2年という記念日にしか報道しなくなる。だから神戸新聞は地元の変化をずっと追い、伝え続けてほしい」。地元メディアの役割で、地元メディアだからこそできることだ。
阪神・淡路大震災の翌日、金ダライを抱えた少年と出会った記者は、20年後、少年と再会し、3児の父となった少年のこの20年を記事にした。当時、掲載されなかったあの時の写 真もいっしょに掲載された。
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。