作者と主人公の姿が重なって見える
ジョーとルイザ |
1カ月ほど前に映画「ストーリー・オブ・マイライフ」を観た。「わたしの若草物語」と、副題がついている。ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』は、監督のグレタ・ガーウィグさんの少女のころの愛読書だった。
映画は物語を時系列に沿ってではなく、作家を目指すジョーのニューヨークでのひとり暮らしに始まる大人時代と、マサチューセッツ州コンコードでの少女時代を自由自在に行き来する。だから『若草物語』にふれるのが初めての人には、わかりにくいかもしれない。
『若草物語』の原題は『Little Women』。物語のなかで、牧師として南北戦争に従軍している父から4人の娘たちへの手紙にそう記されている。それはルイザの父、ブロンソン・オルコットが4人の娘たちに好んで使っていた呼び名だった。
「少女のための物語を書いてほしい」と、編集者に頼まれた35歳のルイザは「少年のために書くほうがいい」と返答した。しかし「いや少女向きのものを」と押され、身近で一番よく知っている自身の4姉妹をモデルに、マーチ家の4姉妹の物語を書いた。
長女でしっかりもののメグ(マーガレット)はルイザの姉のアンナ、おてんばで作家志望の次女のジョー(ジョゼフィーン)はルイザ自身、体が弱くおとなしい3女のベス(エリザベス)は猩紅熱にかかったあと23歳で亡くなった妹のエリザベス、画家志望でわがままな末っ子のエイミーは画家になり、長女を出産したあと亡くなった下の妹のメイというように。
『若草物語』は四巻まであって、1巻は1868年9月に出版された。メグがブルック先生との結婚を決意するまでが描かれている。2巻は続編で、4人姉妹が大人になり、ベスの死の悲しみを乗り越え、伴侶と巡り会う。翌69年に出された。
その2年後に3巻が出版された。ジョーとベア先生夫妻が経営する学園物語で、そこには哲学者で教育学者だったブロンソンの教育思想が生かされている。4巻は1886年の出版。ルイザが亡くなる2年前で、学園を巣立った若者たちの青春が描かれている。
ルイザは1832年11月29日に生まれた。それはブロンソンの33歳の誕生日でもあった。ブロンソンは当時としては革新的な教育者で、哲学者だった。理想家で生活力がなかったため一家は困窮をきわめ、数えきれないほどの引っ越しをした。
奴隷制度に反対の立場から黒人の生徒を受け入れて閉校に追い込まれた時には、思想家のラルフ・ウォルドー・エマーソンの勧めで、ボストン近郊のコンコードに転居。ルイザと姉のアンナは『森の生活』の著者のヘンリー・デイヴッド・ソローが兄のジョンと開いていた学校で学んだ。
13歳のルイザが書いた人生計画書には「父には生活の安定を、母には陽当たりのいい部屋を、姉のアンナには幸運を、病身のベスには看護を、末のメイには教育を」と、願いが込められていた。借金を抱えた家計を助けるために、ルイザは10代から家庭教師や縫い物、家政婦などをして、合間に偽名や匿名で世間に好まれるような小説を書いて原稿料も得ていた。
ある時期からボストンでひとり暮らしをして、コンコードは家族のいるおだやかな場所、ボストンは文化や芸術の刺激を受ける場所と住みわけて作家を目指した。南北戦争が起きると北軍の看護婦を志願し、ワシントンのユニオン・ホテル病院で働いた。
そこで体調を崩した時に処方された水銀の影響で、ルイザの体は少しずつむしばまれ、1888年に55歳で亡くなった。ブロンソンが逝去した2日後だった。
映画「ストーリー・オブ・マイライフ」の原作は『若草物語』の1、2巻。ルイザの半自伝的な物語なので、ルイザとジョーが重なって見える。コンコードのオーチャードハウスの屋根裏部屋の床に書いた原稿を並べ、執筆に没頭するジョーはまさしくルイザの姿だろう。
ルイザは人と会う度に、性格などをメモするのが癖になっていた。その生涯をたどり、出会った人々などを知ることで『若草物語』をルイザの目で読むことができ、映画もより興味深く観られる。ローリーやベア先生にもモデルがいる。
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