159回 安野光雅さんのこと(2021.1.31)

大越 章子



画・松本 令子

空の上で積もる話をしていることだろう

安野光雅さんのこと

 年末の慌ただしさにかまけて、カレンダーを用意しないままに年が明け、七草がゆを食べるころ、ようやく新しいものを掛けた。茶の間に選んだのは、安野光雅さんの「欧州探訪」というカレンダーで、1、2月は中世イタリアの面影を残すシエナのまち。カンポ広場にそびえるマンジャの塔も描かれている。
 それから10日ほどして、安野さんの訃報が伝えられた。クリスマス・イブに、94歳で亡くなったという。クリスマス・イブというのが安野さんらしい。その晩、なんとなく書棚から安野さんの『会えてよかった』(朝日新聞出版)を取り出し、少しずつランダムに再読している。
 「会えてよかった」と思う、こころに残る人たちのことが綴られた本。井上ひさしさんや佐藤忠良さん、鶴見俊輔さん、末盛千枝子さんなど50の人やもの、ことにふれている。最後の50番目は「絵本の世界」。安野さんが初めて絵本を作ったのは、40代になってからだった。

 島根県津和野町で生まれ育ち。宇部工業学校を卒業後、九州の炭鉱で働き、20歳で召集されたが、その年の8月に終戦となる。その後、師範学校を修了し、上京して教員として働くかたわら、個展を開くようになった。そして福音館書店の松居直さんに絵本を描くことを勧められ、42歳の時、最初の絵本『ふしぎなえ』を出版した。文字のない、不思議な絵だけの絵本だった。
 ライフワークといえる、世界各国の風景を俯瞰して描いた「旅の絵本」シリーズは、着陸間際の飛行機からみた風景がきっかけだった。窓から人家らしきものが見え「これから別世界に行くんだ」と覚悟したが、着いてみれば日本と同じような人々の暮らしがそこにはあった。
 どの「旅の絵本」も、海を越えてやって来た旅人が馬に乗って各地を巡り、海の向こうへと去って行く。文字はなく、ページを開くと同時に本のなかに入り込んで、旅人と一緒にいろんな国を旅し、あちこちにしかけられた遊び心を見つけて楽しむ。これまでに、シリーズは9冊出されている。
 
 4冊目はアメリカ。サンフランシスコに上陸した旅人がニューヨークへと向かうのだが、本をうしろからめくると東海岸から西部開拓時代へとアメリカの歴史をたどれる。途中には絵本作家のターシャ・テューダーの家や、『大きな森の小さな家』のローラもいる。
 安野さんは昔、アメリカの編集者の案内でバーモンド州のターシャの家に行ったことがある。門から車でだいぶ走ってようやく辿り着くような広い敷地に建つ、板で囲ったような家で、その日、泊めてもらった部屋の外には小鳥がたくさんいて「これは眠れないな」と思ったが、灯りを消したら静かになったという。
 『会えてよかった』の「絵本の世界」では、ターシャの家を訪ねた時のことにもふれていて、安野さんは家のあちこちをスケッチし、写真も撮った。どうも、ターシャの家をモデルに楽しい絵本を作ろうとしたようだが、その準備をしている時に同じような内容の絵本が出版され、断念せざるを得なかった。
 あとがきで、安野さんは最後に「いつの間にか時が過ぎ、(『会えてよかった』に登場した人のなかには)亡くなった人もあります。やがてさきに逝った人のいるところでもし会えたら、そのとき、あなたに会えてよかった、と言おうと思っています」と書いている。
 もしかしたらいまごろ、空の上で「会えてよかった」と言いながら、積もる話をしているかもしれない。

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