

起きたことを報じるだけでない記者の視点
新聞記事との再会 |
深くこころに刻まれている新聞記事がある。普段は意識していないが「どうして新聞記者になったの」と尋ねられたりすると、その記事がふわっと浮きあがってくる。新聞記者の仕事をとても身近に感じ、いい仕事だなあと思ったのも、その記事がきっかけだった。
昭和60年(1985)2月、福島県立医大の2年生で山岳部に所属していたいとこが、吾妻山を1人でスキー登山していて亡くなった。翌朝の新聞各紙は「医大生が遭難死」などの見出しで、登山道わきで倒れているのが発見され、登山の途中で吹雪などに遭って疲労により凍死したとみられる、と報じた。
しかしその後に行われた解剖で、死因は若年性心筋梗塞とわかった。いとこが幼いころ患った病はリュウマチ熱と診断されたが、実はそのころまだわからなかった川崎病(全身の血管に炎症が起こる病気)で、スキーで登山中にその後遺症に襲われたのだった。
朝日新聞の福島県版では1報の2日後、「ニュース裏・表」という欄でその事実を取りあげ、一般にはあまり知られていない川崎病と後遺症について説明し、山岳部きっての慎重派で、人の気持ちがわかる医者になりたいと思っていたことなど、いとこの人となりを伝えた。
さらにその1週間後には3報として「今年は川崎病の流行年に当たるといわれている」と、川崎病を研究している専門家を取材し現状にふれながら、要注意なのは経過中に冠動脈に変化があった場合で、医師の指導を受けながら定期的な検診を受けなければならない、と詳細に報道している。
これらの記事は切り抜いて大事にとっておいた。もちろんいとこの記事だったからだが、単に起きたことを報じるだけではない記者の視点に、うまく言えないが胸が熱くなり、時間の経過とともに共感した。それから5年以上が経ち、あのころ大学浪人をしていたわたしは思いがけず新聞記者になった。
新聞記事は出し入れしているうちになくしてしまい、ある時、思い立っていわき市の図書館で探した。昭和60年2月の朝日新聞は縮刷版でしか見られず、縮刷版に県版は載っていないので、記事との再会は果たせなかった。
この春、ジャーナリストの友人に新聞記者になった理由を聞かれ「成り行きというか…」と答えながら、いとこと新聞記事の話をした。間もなく「いとこさんの記事が見つかりました」と、友人が新聞記事のコピーを送ってくれた。
国会図書館のデータベースで探したという。20年以上前の新聞記事はキーワードでは検索できず、いとこが亡くなって以降の1カ月ほどの朝日新聞の福島県版を丁寧に追ったそうだ。記事を読んだ友人も取材がとても丹念なのに感心し、書いた記者を想像した。記者になって数年以内の社会部の記者かな、探し出していま、どうしているのかを知りたいね、と。
あらためて記事を読んだ。「人のことを真っ先に考える優しい男」「広く、深く人間を知ろうとしていた」など、同級生や先輩たちの話が書かれている。「好きな山で、きれいに死ねて、本望だったと思います」と伯母の言葉も。
今年はいとこの37回忌で、翌月が命日の伯母の3回忌と合わせて法要が行われた。生きていた年月より亡くなってからの時間がずいぶん長くなったが、いとこはいまも前を歩き、生きる姿勢を教えてくれている。
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。