169回 ユージンからのメッセージ(2022.3.16)

大越 章子



画・松本 令子

時に1枚の写真がわれわれの意識を呼び覚ます

ユージンからのメッセージ

 アイリーン・美緒子・スミスさんを招いて、福島県立博物館で1月に開かれた特別講座を、先日、YouTubeで聴いた。詩人の和合亮一さんが聞き役の講座で、アイリーンさんはユージン・スミスと暮らした水俣での3年間を振り返りながら、いま思い考えることを話した。

 アイリーンさんは1970年の夏にユージンと出会った。当時、スタンフォード大学の学生で、日本の広告代理店の通訳のアルバイトでユージンのロフトを訪ねた。それを機に、遅れていたユージンの展覧会の準備を手伝い、暗室で写真の世界を初めて知った。
 そのころ、東京で小さな出版社を営む元村和彦がロフトにやって来た。雑談のなかで「日本の漁村を撮りたい」と話すユージンに、元村は「いま日本で大変なことが起きている」と、水俣病の話を始めた。
 ニューヨークでの展覧会を終え、1971年8月、ユージンとアイリーンさんは来日し、東京で籍を入れた。ユージンが52歳、アイリーンさんは21歳。9月上旬にユージンの展覧会が新宿の小田急百貨店で開かれ、会期中、ふたりは初めて水俣に行った。水俣の本格的な取材は11月半ばから始めた。
 
 水俣では1950年ごろから貝類が死に、魚が浮き上がり、海草が育たなくなるなどが見られるようになった。そのうちに原因不明の病気に苦しむ人が現れ、1956年5月、水俣病は公式確認された。その後、チッソ水俣工場の排水に含まれたメチル水銀が原因であることが判明し、1960年代後半にはチッソの責任を問う裁判闘争が始まった。
 1971年ごろには支援者や学生も闘争に加わり、水俣は熱気に包まれていた。そういうなか、ユージンとアイリーンさんは水俣の出月に家を借りて住み始めた。ふたりは患者と家族の日常に入り込み、語り合い、親しくなってレンズを向けた。1カ月後、ユージンの水俣の象徴となった写真「入浴する智子と母」が撮影された。
 一方「わたしが知る最も美しい人の一人」と言って3年間、撮り続けた田中実子さんの写真には納得いかなかった。「声なき声を代弁できていない」。ユージンはそんな苛立ちを、いつも実子さんの写真に持っていた。
 撮影が患者たちを傷つけてはいないか、という不安も抱いていた。写真家である自分には、被写体への責任と写真を目にする人への責任がある、という信念を持っていた。ジャーナリズムに客観性はあり得ず、あくまで主観的なものだからだ。
 1972年1月、患者たちなどと千葉のチッソ五井工場を訪ねた際、ユージンも暴行を受けた。沖縄戦の取材での古傷も悪化し、さまざまな症状に悩みながら撮影は続けられた。1974年10月、アイリーンさんとともにアメリカに帰国。翌年、ふたりの写真集『MINAMATA』が出版された。そして、ふたりは離婚。ユージンは1978年10月、59歳で亡くなり『MINAMATA』は遺作となった。
 昨年は、ユージンとアイリーンさんが撮影のために水俣に移り住んで50年の節目の年だった。ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」が公開され、写真集『MINAMATA』も再版された。
 県立博物館の特別講座で和合さんに「水俣と向き合ってきて(50年の)歳月をどう感じているか」と聞かれたアイリーンさんは「わたしは、いまを見る人間。よく『水俣の教訓を生かす』といわれるが、それは同じことを繰り返さないことと思っている」と話した。

 昨年4月、政府は福島第一原発の敷地内のタンクにためられたトリチウムを含む汚染水を、海洋放出する方針を決めた。6日後、水俣病の患者団体などでつくる連絡会は「水俣病の教訓を顧みず、同じ過ちを繰り返そうとしている」と、反対の意を唱えた。
 ユージンは写真集『MINAMATA』で次のように書いている。
 「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま——1枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる。(中略)私は写真を信じている。もし十分に熟成されていれば、写真はときには物を言う」
 私たちへのメッセージだろう。

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