明日のことを思い煩うなかれの呪文
マー姉ちゃんの母 |
この半年、夕食後にお茶を飲みながら、録画した「マー姉ちゃん」の再放送を楽しく見ていた。1979年(昭和54)の春から半年、放送されたNHKの連続テレビ小説で、漫画家の長谷川町子の姉の鞠子を主人公に、昭和9年から約20年間の長谷川家のできごとが描かれた。
原作は町子の自伝的エッセイ漫画『サザエさん うちあけ話』(姉妹社)。絵と文字を組み合わせた文章と絵物語、漫画で綴られていて、内容はもちろん、表現方法も自由で面白い。
およそ40年前に放送された時は中学生で、テレビ小説を見ることができなかった。でも、うちあけ話は繰り返し読んでいた。「マー姉ちゃん」は原作にほぼ忠実につくられている。
町子たちの父の勇吉と母のサタはともに鹿児島出身。三菱炭砿の技師だった勇吉は独立して、ワイヤーロープの会社を福岡で経営していたが、昭和八年に病死した。町子には鞠子のほかに妹の洋子がいて、三姉妹で育った。
勇吉の死の翌年、サタは3人の娘たちを連れ、兄を頼って上京した。鞠子は画家を志して川端画学校で藤島武二に学び、町子は「のらくろ」の田河水泡の弟子になり、洋子は小学校に通った。
町子は弟子になった翌年、漫画家デビューし、2年後、鞠子も挿絵画家として仕事を得て、菊池寛の連載小説に挿絵を描いた。女子大生になった洋子は文才を認められ、退学して菊池寛に弟子になり、文藝春秋に入社した。
戦争が激しくなると、一家は以前暮らしていた福岡に疎開。終戦の翌年、町子は「夕刊フクニチ」で「サザエさん」の連載を始めた。そのころ、肋膜を患って療養していた洋子と海岸を毎日、散歩していたから、登場人物がすべて海産物になったという。
その年の暮れ、一家は再び上京し、サタの指示で『サザエさん』を出版した。三姉妹で出版社「姉妹社」をつくり、鞠子が社長になって外とのやりとりをすべて担い、画業は封印した。洋子は原稿の整理や本づくりの準備など、町子を陰から支え続けた。
早くに勇吉を亡くし、戦争が起き、洋子は療養生活を強いられるなど、さまざまなことがあったが、一家はその都度、正面から向き合い、難しければ難しいほど体当たりで挑んだ。そこには「独裁者」と、娘たちに言われたサタの存在がいつもあった。
勇吉は長い闘病の末に亡くなったが、その間、サタは心のよりどころを教会に求め、一家5人で洗礼を受けた。もともとサタは「あなたたちは立派な天分をもっている、きっと世の中に認められるようになる」と、子どもたちが物心ついたころから励まして育てる人だった。おっとりしているようで、周りを驚かすような素早い決断力と行動力があった。
町子が田河水泡の弟子になる時も、姉妹社をつくる時も、「サザエさん」の1巻が売れないのに2巻を出す時もそう。「ここぞ」という時、当たり前のことのように背中を押す。その言動は「サザエさん」の4コマ漫画みたいで、思わず笑ってしまう。
熱心なクリスチャン。病める人、困っている人を助け、全財産を使ってしまっても「神さまを信じて、まっとうに暮らせば、やもめと、みなし児の家の粉はつきることがない」と平然としている。そして、なにがあっても「明日のことを思い煩うなかれ」と、くぐり抜けてしまう。
「明日のことを思い煩うなかれ」はしあわせの呪文で、呟くと元気が出てきて、周りも笑顔になる。コロナ禍が続き、ウクライナのこともある。だからこそ、明日のことを思い煩うなかれ。
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