171回 晴れた五月の日に(2022.5.15)

大越 章子



画・松本 令子

大切に記憶していた特別な時間とともに

晴れた五月の日に

 この春、原発事故後初めて、逆L字に2.2㎞続く夜の森のさくら並木がすべて歩けるようになった。テレビニュースのピンクのトンネルの中継を見ながら、横浜の気賀沢芙美子さんが元気でいたら、このニュースをどう受け止めただろう、と思いを巡らせた。
 前に1度、この欄でふれたが、芙美子さんとは2011年の秋、弟の目良誠二郎さんを介して知り合い、夜の森のさくらを植えた曾祖父の半谷清壽さんと、夜ノ森駅にツツジを植えた祖父の六郎さんについての原稿をお願いした。
 芙美子さんはこころよく引き受けてくれ、翌年の初めから3回にわたって「桜とツツジの夜の森」を日々の新聞に掲載した。最終回の原稿には「2011年4月には住む人も訪れる人もいない街となってしまった夜の森で、逆向きL字の2本の桜並木はどのように花時をやり過ごしたのだろう」と書かれていた。
 3年前まで、さくら並木の大半が帰還困難区域になっていて、自由に眺められたのは南側の300mだけだった。2020年に800mに延長され、今年1月の立ち入りの規制緩和で全2.2㎞、420本のさくら並木を見られるようになった。
 それを知ることなく、芙美子さんは2019年2月、79年の生涯を閉じた。1年半ほど病と闘ってのことだった。

 それから3年、ゴールデンウィークに日々の新聞の編集室からほど近い、カトリックいわき教会平墓地に納骨された。親族や親しい人たちと一緒にわたしも参列した。原稿の掲載後も時々、電話や手紙で互いに近況報告をしていたが、会えないままの別れになった。
 教会の平墓地には、芙美子さんの両親や上の弟さんも眠っている。太平洋戦争が始まり、芙美子さんは家族と、東京から母の故郷の夜の森に疎開した。下の弟の誠二郎さんは終戦の前年、夜の森で生まれたという。
 大学で数学を教えていた父は2度目の応召で結核にかかり、野戦病院で終戦を迎えた。戦後、父は夜の森から片道8時間かけて東京の大学に通っていたが、次第に病状が悪化し、休職せざるを得なかった。
 終戦から4年後の1949年、父はカトリックへの入信を決め、夜の森から一番近い、平に前年つくられた教会のグローロ神父を招き、家族全員で洗礼を受けた。その際、グローロ神父は「日本でこんなに物怖じしない子どもに会ったのは初めて」と、芙美子さんの印象を語っていたという。
 翌年の5月、一家は東京に戻ったが、暮れに父が36歳で亡くなった。生前、父は一番上の芙美子さんにいろいろな話をした。「桜とツツジの夜の森」も、父から聞いた話をもとに書いた。1940年生まれの芙美子さんにとって、家族5人で暮らした夜の森での日々はいとおしく、大切に記憶していた特別な時間だった。

 夫の忠文さんによると、東京で芙美子さんは結核に感染し、中学生の時に3年間、休学したという。大学ではフランス文学を専攻して、博士課程を修了後、恩師とフランスルネサンス詩人のピエール・ド・ロンサールの研究会を立ち上げた。2011年の春まで、大学で教えていた。
 明るくて優雅で繊細、やさしくて困っている人を見過ごせない。反面、自らの考えを理路整然と主張する勇気と強さがあった。リーダーシップを発揮して学童保育施設の設置活動に力を尽くし、横浜・野毛にあった日本最古のジャズ喫茶「ちぐさ」の復活にも奔走した。
 「人生は自由に生きていいと自分に与えられたものだから、それを実現したい」。それが芙美子さんのモットー。美しいものが好きで広く芸術を愛し、なかでもマーラーの「大地の歌」とカスリン・フェリアの歌を好んだ。
 あとのことを考えたのだろう。忠文さんが使いやすいキッチンに作り替え、雨の日も洗濯に困らないようにサンルームを設け、完成を見届けて旅立っていった。
 
 あるとき芙美子さんと忠文さんは自分たちの墓について話し合う機会があり、いわき教会の平墓地に眠ることを決めた。納骨の日は晴れた緑の美しい日で、愛犬もお別れに立ち合った。大事に思っていた叔父や叔母、それにグローロ神父も近くに眠り、芙美子さんにとってそこは故郷の地でもある。

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