175回 荒城の月のこと(2022.9.15)

大越 章子



画・松本 令子

仙台の街に流れていたミュージックサイレン

荒城の月のこと

 

 

 仙台で学生生活を過ごしていたころ、街に「荒城の月」が流れていた。午前10時と正午、午後3時と5時を知らせるミュージックサイレンで、駅前にあった丸光百貨店の屋上に取りつけられていた。アンダンテのリズムは街と響き合い、ゆったり、しっとりした空気を漂わせていた。
 作詞者の土井晩翠は仙台の生まれ育ちなので、「荒城の月」は青葉城をイメージして詩作された、と長く思っていた。しかし作詞する際に晩翠がまず想い描いたのは、旧制二高時代に同級生たちと訪ねた会津若松の鶴ヶ城だった。
 建物はすべて解体されて廃墟のような城跡、飯盛山で自刃という最期を遂げた白虎隊の悲話、落城を悟って山本八重が城壁に書き残した「明日よりはいづくの誰か眺むらん 馴れし大城に残る月影」の歌…。祖父や両親から落城のいきさつを聞かされて育った晩翠は詩に無常観を刻み、三番に当時の青葉城の姿も表した。

 東京音楽学校から中学唱歌を依頼されて書き上げられたその詩に、東京音楽学校の学生だった滝廉太郎が曲を作って応募。晩翠の詩から浮かんだ情景は、幼いころに暮らした大分県竹田市の岡城だったといわれている。
 1901年(明治34)、「荒城の月」は刊行された『中学唱歌集』で発表された。廉太郎の曲はいま一般に知られている山田耕筰編曲のものと少し違って「(春高楼の)はなのえん」の「え」が半音上がり、テンポも速い。
 発表の翌年、晩翠と廉太郎はロンドン郊外のテムズ川の埠頭に停泊していた船のなかで会っている。ドイツに留学していた廉太郎は胸を病んで帰国を余儀なくされ、その途上でイギリスに留学中の晩翠が見舞った。ふたりにとって、最初で最後の対面だった。10カ月後、廉太郎は23歳で帰らぬ人となった。
 80歳まで生きた晩翠はイギリスのあと、フランスとドイツで学び、1904年(明治37)に帰国した。母校の旧制二高で英文学の教授となり、熱い講義をして学生たちに慕われた。しかし3人の子どもは若くして病死し、仙台空襲で自宅と3万冊の蔵書を焼失、戦後は妻も亡くし、晩年は孤独だったという。
 
 仙台の街に流れていた「荒城の月」のメロディーは1987年(昭和62)、ミュージックサイレンが故障して丸光百貨店の屋上から撤去され、聞こえなくなった。それとともに街も、人の動きも慌ただしくなっていったように思う。
 丸光百貨店はいわきと関係がある。創業者の佐々木光男は石城郡平町(現在のいわき市平)出身で、実家は家具店の丸ほん。光男は1932年(昭和7)、仙台で家具店「丸ほん」を始め、注文家具の製造・販売をした。
 戦後、仙台駅前の空襲の焼け跡にバラックを建てて雑貨店「MARUMITU DEPT.STORE」を開いた。1953年(昭和28)に百貨店として営業を始め、東北で初めて日本楽器製造(現在のヤマハ)のミュージックサイレンを導入した。大黒屋の社長だった馬目佳彦さん(故人)は、大学卒業後、丸光百貨店で研修をしている。
 そのうちに大手資本との競争が始まり、百貨店連合を設立するなどしてダックシティ丸光と改称し、さらに仙台ビブレ、さくら野百貨店仙台店と変わり、5年前に閉店して70年歴史にピリオドを打ち、いま、建物だけが残っている。
 そこから青葉通りをまっすぐ青葉山の方向に15分ほど歩くと、晩翠が晩年を過ごした晩翠草堂がある。庭には空襲で焼けたにもかかわらず復活したヒイラギモクセイの木があり、晩翠の命日(10月19日)のころに白い花を咲かせる。
 「荒城の月」のメロディーは学生時代を過ごした杜の都を思い出させる。

 

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