シンプルな旋律に色彩を織り込む
舘野泉さんのピアノ |
この秋はドイツのリート歌手クリストフ・プレガルディエンさんのシューベルトの「冬の旅」に始まり、N響の定期演奏会、小林研一郎さんが指揮した読売交響楽団、山﨑まり絵さんのピアノなど、ずいぶん演奏会に出かけた。文化の日には南相馬の市民文化会館(愛称・ゆめはっと)で、舘野泉さんと千住真理子さんの演奏を聴いた。
舘野さんは2004年春、ゆめはっとが開館した時から名誉館長をしていて、毎年、演奏会を開いている。ゆめはっとは館長職がないので、実質的には館長ともいえ、市内の小学校を訪れて演奏を届けることもしてきた。
1995年、南相馬市原町区がまだ原町市だったころ(南相馬市は2006年、原町市と小高町、鹿島町が合併して誕生した)、舘野さんは有志たちの「音楽を楽しむ会」に招かれ、初めて原町を訪れた。当時、原町には音楽ホールがなく、演奏会はホテルで、グランドピアノを仙台から運んで開かれた。
その後も音楽を楽しむ会主催の舘野さんの演奏会は続き、親交を深め、2003年秋にゆめはっとのピアノの選定、さらに名誉館長をお願いされたという。
舘野さんは2002年、住まいのあるフィンランドでの演奏会で最後の曲を弾いている時に突然、右手の動きが遅くなった。なんとか演奏を終え、舞台袖に向かって数歩進んで倒れ込んだ。脳溢血だった。手術ができない場所で、右半身に麻痺が残った。
65歳になったばかり。2カ月の入院生活を経て、退院してから1年半ほどは、暗闇で両手を探っているような日々を過ごした。懸命なリハビリで日常生活にそれほど不自由を感じなくなったが、鍵盤にふれると右手は勝手な方向に動いてしまう。
舘野さんが右手のトレーニングに懸命になっていた時、息子のヤンさんはそっと一枚の譜面を置いた。イギリスの作曲家フランク・ブリッジの「左手のための三つのインプロヴィゼーション」。第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニスト、ダグラス・フォックスのために作った曲だった。
譜面を広げて何気なく弾き始めると、自身を閉じ込めていた氷河が一瞬にして溶け、青い大海原が目の前に現れたような気がしたという。左手だけなのに音がうねり、漂い、波を爆ぜて飛沫を上げ、倒れる前と同じようにピアノを弾くことで世界と自身が一体になるのを感じた。
左手だけで演奏する作品があることは、舘野さんも以前から知っていた。それでもピアノは両手で弾くものと思い込んでいた。しかし左手だけでも十分に表現できると気づかされ、それから作曲家たちに次々、左手用の曲を頼んだ。
ゆめはっとの名誉館長を当時の原町市長に依頼されたのは、左手のピアニストとして本格復帰を半年ほど先に控えていたころ。右手が動かないだけでなく、まだ思うように話せず足元もおぼつかなかった。それなのに復帰を信じてくれていると思い、舘野さんはうれしさが込みあげた。
開館と同時に、音楽を楽しむ会や原町の芸術文化協会の人たちが中心になって、タピオラの会という舘野さんのファンクラブも立ち上げられた。タピオラとは、舘野さんが好きなシベリウスの交響詩で、中学生のころにラジオで聴いて、どこまでも永遠に続く森を感じた。
開館から20年近くが過ぎ、この間、震災・原発事故が起きた。事故から3カ月後、舘野さんは南相馬を訪れ、夏にはフィンランドで復興支援のコンサートを開催した。翌年、休館していたゆめはっとが再開した際には、ヤンネさんとデュオコンサート「天上の祈り」を開いた。
文化の日のコンサートは、千住さんのバッハの無伴奏ヴァイオリンで始まった。「シャコンヌ」は、舘野さんもブラームスが左手だけで弾くように編曲したものを何百回と弾いていて、その度に新しい発見をしている。次に舘野さんが季節の循環を表した新曲「土曜日の森」などを弾き、前半は互いにソロ演奏した。
舘野さんが演奏する曲は作曲家たちにお願いして作ってもらった左手の曲か、「シャコンヌ」のように左手だけで奏でられるように編曲されている。後半、舘野さんは岩手県の大槌町の海を見下ろす丘に設置された風の電話をイメージした曲や、山田耕筰の「赤とんぼ」を梶谷修さんが編曲したものを演奏した。
舘野さんの音は風や光、波など自然を豊かに表現する。「赤とんぼ」は思わずため息がもれる超絶技巧で、夕焼けのなかにいる気持ちになった。左手だけで奏でるそぎ落とされたシンプルな旋律に、さまざまな色彩を織り込んで心地よい音を紡ぐ。
千住さんとの「G線上のアリア」や「タイスの瞑想曲」「夢のあとに」のデュオは、ふたりの音楽への姿勢も垣間見え、やさしさに包まれた。アンコールはカタルーニャ民謡の「鳥の歌」。ふたりが奏でる鳥はピース、ピースと鳴きながら世界の果てまで飛んでいった。
舘野さんは自身にとって音楽こそが生きる力だという。ピアノは体全体を使って、指ではなく呼吸で弾いていると感じ、こころで呼吸するように音楽を続けられれば生きていける――著書にそう記している。
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