181回 牧野富太郎と福島(2023.5.31)

大越 章子



画・松本 令子

 5日ほどかけて浜通りで植物採集する

牧野富太郎と福島

 

 植物学者の牧野富太郎を主人公のモデルに描いたNHKの朝ドラ「らんまん」を毎朝、楽しみに見ている。週ごとに植物のサブタイトルがついていて、その植物が物語の鍵を握る。例えば、1週目のバイカオウレン。牧野は幼少期、高知の生家の裏山に咲くバイカオウレンを好み、ふるさとを思い起こさせる植物として生涯愛したという。ドラマでも母のヒサが「一番好きな花」と言っていた。
 5月になってドラマの舞台は高知から東京に移り、主人公の万太郎は東京大学植物学教室への出入りを許され、いよいよ植物分類学の研究に打ち込むようになった。牧野は94年の生涯で40万枚もの植物標本を収集し、新種や新品種など合わせて1500種類以上の植物に命名している。日本人が見つけた日本の植物に学名をつけ、日本の雑誌で発表することにこだわった。そうして草創期にあった日本の植物学を世界水準に高めていった。

 草を褥に木の根を枕
 花と恋して九十年

 牧野は自身をそう歌に詠んでいる。90歳ぐらいまで植物採集に出かけ、沖縄県を除く全都道府県と台湾、旧満州の野山で植物採集や調査をしている。研究のためなら後先を考えずにお金をつぎ込み、大金を送ってくれていた実家は傾き、東大の月給は得ても13人の子ども(うち6人が成人)との暮らしでは晩年まで家計は苦しく、借金が膨らむばかりだった。家賃が払えず引っ越しを30回以上も繰り返した。

 牧野は明治23年(1890)8月中旬、親友で東大を卒業したばかりの池野成一郎とふたりで福島県の浜通りを植物採集して歩いている。長年、植物の調査・研究している湯澤陽一さんが『牧野富太郎 植物採集行動録』を参考に福島県での採集行動を調べたところ、8月13日に北茨城からいわきに入り、浜通りを北上して岩手県の一関まで行って栗駒山にも登り、そのあと福島師範学校の教諭の根本莞爾を訪ね、宇都宮を経て9月5日に東京に戻った。
 牧野たちは初め、東北本線で東北に向かったが出水で汽車が不通となり、やむを得ず栃木県の小山から水戸線で水戸に行った。那珂、大洗、高萩、北茨城を経由して8月13日にいわきに来た。勿来の関田、錦の大倉、植田などで植物を採集し、その日は湯本の山形屋に宿泊したようだ。
 翌14日は内郷の高野で採集したあと、四倉経由で双葉郡に向かい、広野の折木温泉に泊まった可能性が大きい。15日は楢葉の木戸や竜田、富岡、大熊の熊川などで採集して浪江に宿泊。16日は小高、原町、相馬と歩き、小高ではオオネバリタデを採って新種記載をしている。17日には相馬から宮城県に入った。
 栗駒山に登り、東京に帰る前に牧野たちが訪ねた福島師範学校の根本は、13年後、副手の中原源治が吾妻山の大根森で発見したハクサンシャクナゲの二重花冠種を牧野に送り、6年後、牧野によってネモトシャクナゲと命名、発表された。
 牧野が植物の調査をして歩いた場所がわかる日本地図があって、福島県は浜通りに集中している。

 植物は人間がいなくても、少しも構わずに生活することができるが、人間は植物がなくては1日も生活することができない。人間は植物に対しておじぎをしなければならない立場にある。人間に必要欠くべからざる衣食住は、すべて植物によって授けられている。人間は植物に感謝の真心を捧げなくてはならない――牧野はそう言葉を残している。

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