紀志子さんを思って曲にした自作を演奏
土屋恵さんのこと |
夏の終わりにアートスペースエリコーナで開かれた「Twilight Concert」で、久しぶりに土屋恵さんの演奏を聴いた。若手演奏家たち七人がそれぞれ数曲ずつ奏で、恵さんは6番目に登場した。
客席の後ろからアルトス・ピアソラの「レベルタンゴ」をボタン式アコーディオンで弾きながらステージの前まで進み、ホールの空気を恵さんの世界に一気に変え、ステージに上がってカルロス・ガルデルの「ポル・ウナ・カベサ」を奏し、観客をぐっと引き込んだ。それから自身が作曲した「鏡の視点」と「みんなの太陽 若松紀志子氏に捧ぐ」をピアノで演奏した。
恵さんは4歳からピアノを始め、高校3年生まで若松紀志子さんに教わった。30年近く前、紀志子さんが主宰するピアノ教室「アザミ会」が50周年を迎え、その歳月を振り返る連載の取材をしていて、紀志子さんの自宅のレッスン室で恵さんのピアノを初めて聞いた。
当時、恵さんは小学2年生。楽譜を丁寧に読んできちんと弾き、指導を受けると同じ間違いを繰り返さない、しっかりした女の子だった。みんなが一年かかるところを3カ月ほどで終え、小学6年生と同じ程度の練習曲を弾いていた。
特別な練習をしていたわけではなく、普段は学校から帰って友達と遊んだあと、30分から2時間ぐらいピアノに向かった。レッスン後は紀志子さんに言われたことを復習。すると曲はまったく違う音楽になった。
紀志子さんは「感じる力、知的に理解する力、訓練する努力が備わっていて、期待と希望を持って教えられ、喜びを味わえる。ただ年齢的に、この子の将来を守ってあげられるかなと思っている」と話し、七十数歳離れた教え子を大切に育てていた。
恵さんは高校3年生の夏、ピアノの道に進むことを決め、音楽大学に進学した。卒業後、スペインに短期留学し、さまざまな場所で幅広いジャンルの曲の演奏も始めた。アルトス・ピアソラの哀愁が漂う旋律と、血が騒ぐようなリズムが好きだという。10年ほど前からボタン式アコーディオンを弾いている。主に右手で旋律、左手ではベースとコードを奏でる。
アコーディオン曲はそう多くなく「弾きたい曲を作ろう」と思い立ち、子どものころからしていた曲作りにも取り組んでいる。そのなかで、新型コロナウイルス感染症の世界的大流行を経て、エリコーナでの「Twilight Concert」に向け、紀志子さんに捧げる曲作りを思い立った。紀志子さんは2012年に96歳で亡くなった。
教え子の多くがその厳しさを口にする紀志子さんのレッスンだが、年齢を重ねてからの教え子だったからか、恵さんはやさしく穏やかで、上品な印象しかない。「太陽の光と自由、それにピアノとテニスがあればしあわせ」。紀志子さんはよく、そう話していた。まさしく、みんなの太陽みたいだった。
レッスン後に紀志子さんがノートに書いてくれた曲についてなどのメッセージを、恵さんは帰宅して読むのが楽しみだった。そういうことを思い出しながら、すんなり作れたのが「みんなの太陽若松紀志子氏に捧ぐ」だった。
やさしくて温かで、透明感があり、聴いていると笑顔の紀志子さんが浮かぶ。エリコーナという名前は、終戦後の何もない時代に、湯本の紀志子さんの自宅で開いていた音楽会の名称で、ギリシャ神話に出てくる山の名前。音楽の神・ミューズが住んでいたとされる。
恵さんのエリコーナでの演奏を、紀志子さんはとろけそうな笑みを浮かべて聴いていたに違いない。
※恵さんは12月16日、エリコーナでクリスマスコンサートを開く。その際にも「みんなの太陽 若松紀志子氏に捧ぐ」を演奏する。
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