184回 花巻の秋の旅(2023.11.15)

大越 章子



画・松本 令子

 あの時のオレンジ色の風景と桃色の空

花巻の秋の旅

 

 11月初め、親しい人の米寿のお祝いに、6人の仲間で秋の花巻を旅した。高村光太郎と宮沢賢治の旅で、高村山荘や羅須地人協会、イギリス海岸、下の畑、「雨ニモマケズ」の詩碑など、ゆかりの地を巡った。まちの中央を流れる北上川、青空にふんわり浮かぶ雲、風と戯れる木々…なかでも桃色に空を染める夕日が美しかった。

 学生時代だから、もうずいぶん前になるが、同じ時期に花巻を訪ねたことがある。きっかけは何だったのか、「秋を探しに花巻に行こう」となり、日曜日の早朝、友達と仙台駅から北へ向かう列車に乗った。携帯電話もインターネットもないころ。小さなガイドブックが頼りだった。
 降り立った花巻駅は思いのほか小さく、駅前の喫茶店でモーニングを食べながら、高村山荘行きのバスを待った。ようやく乗ったバスはまちをぬけ、田園地帯を山に向かって走り、30分ほどで終点の高村山荘に着いた。周辺には見渡す限り、リンゴ畑が広がっていた。
 「折り返し花巻駅に向かうから、その時間までに戻っておいで」と運転手さんに言われたが、せっかく来たのに15分ぐらいでは満喫できないと思い「智恵子展望台など周りも散策したいので次のバスにします」と答えて降りた。

 高村山荘は、高村光太郎が終戦の秋から七年半を過ごした山小屋。光太郎は昭和20年(1945)4月の空襲で東京の自宅兼アトリエを失い、翌月、親交のあった宮沢賢治の花巻の実家に疎開した。しかし八月に宮沢家も空襲に遭い、旧太田村山口(現在の花巻市太田)に住むことになった。
 その山小屋は営林署から払い下げられた、杉皮葺き屋根の粗末な建物で、土間を含めて15畳ほどの広さ。冬には雪が吹き込んだという。炊事場の壁にかけられたフライパン、つるされたランプ、明かり取りの障子に書かれた日時計など、光太郎の暮らしが垣間見えた。
 詩作と書に専心する日々のなかで、光太郎は山荘裏の小高い丘を好んで散策したという。時には夜、丘に立ち、遥か遠くの安達太良山に向かって、疎開する7年前に亡くした妻の智恵子の名を叫んだ、とも伝えられている。
 
 土産物屋を兼ねた食堂で蕎麦を食べ、花巻駅行きのバスは夕方までなかったため、交通量の多い通りまで歩くことにした。途中、「1個100円」と書かれた空き缶に100円玉を入れ、リンゴ箱から1つ取って丸かじりした。甘く、みずみずしく、最高のデザートだった。
 車通りまで出てもバス停は見当たらず、タクシーも捕まらず、歩いても公衆電話さえ見つからない。仕方なく親指を立て、初めてで一度きりのヒッチハイクを試みた。間もなく「どこまで行くの」と、白いセダンの車が止まり、乗せてくれた。
 内心ドキドキしながら、車中、友達と今朝からの出来事を説明すると「それは、運転手の言う通りにすればよかったね。でも君たちの気持ちもわかる」と笑いながら、花巻駅まで送ってくれた。
 胡四王山に建つ宮沢賢治記念館に着いたのは午後3時を過ぎたころ。どっぷりイーハトーヴの世界にふれ、ベランダに出た時は夕暮れだった。夕日に照らされたオレンジ色の風景の真ん中に北上川が見えた。
 なんとなく友達と「もみじ」を口ずさみ、高村山荘の食堂にかけてあったのれんにあった光太郎の言葉「こころはいつでも新しく 毎日なにかしらを発見する」をそらんじた。
 40年近い時を経て、車窓から桃色の空を眺めていたら、光太郎の言葉が浮かんできた。

 

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