東京の真中にかういう静かな宿があるとは
山の上ホテル |
JR御茶ノ水駅から明治通りを歩いて5分ほど、神田駿河台の高台に「山の上ホテル」はある。築90年近い建物の老朽化の対応を検討するために、2月13日から長期休館すると聞き、1月中旬、仕事で東京へ行った帰りに立ち寄った。
山の上ホテルの「コーヒーパーラー ヒルトップ」には思い出がある。2003年、日々の新聞の創刊を1カ月後に控え、できたての創刊準備号のゲラを持って、上京していた京都経済新聞の社長で編集人の築地達朗さんを訪ねた。その待ち合わせ場所が、山の上ホテルだった。
築地さんは日本経済新聞で12年、記者をして独立し、一九九七年に京都経済新聞を創刊して、6年が経っていた。その間に日刊から週刊に発行を変えた。コーヒーパーラーで昼食をとり、そのあと、お茶を飲みながら、何時間も新聞に対する考えや思い、創刊からこれまでの苦労話を聞き、さまざまな助言を受けた。
それ以来、山の上ホテルに行くのは21年ぶり。休館イベントが始まっていたこともあって、ホテルには多くの人が来ていて賑やかだった。美しいらせん階段を下りた左奥のコーヒーパーラーでは、混雑を避けるため整理券を配布していたが、その日の配布はすでに終了していた。
しかたがないので、休館イベントの「山の上ホテルの創業70年の歴史展示」をゆっくり眺めた。それによると、ホテルのシンボルのアールデコ様式の建物は、建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によるもの。故郷の福岡で炭鉱経営に成功した佐藤慶太郎が1937年に「佐藤新興生活館」として建てた。
佐藤は資金難で頓挫しかけていた東京都美術館の創設のために、多額の寄付をしたことでも知られる。胃腸の病に苦しんでいた57歳の時、医学博士に徹底した咀嚼を勧められ、体調が回復。以後、日本人の健康増進運動に力を入れ、新興生活館で女性たちに調理や被服、住居、育児、家政、生活芸術などを教育した。
その後、建物は太平洋戦争中に海軍に徴用され、敗戦後にはGHQに接収されて陸軍婦人部隊の宿舎に使われた。そしてGHQの接収解除を機に、1954年、山の上ホテルの創業者の吉田俊男がホテルを開業した。当時、東京にホテルは4、5軒あるだけだった。
多くの作家たちに愛されたホテルだった。最初に宿泊したのは川端康成。池波正太郎は「気持ちのいい宿」と晩年にしばしば利用した。三島由紀夫は山の上ホテルの便せんに次のように書いて吉田に手渡したという。
「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。設備も清潔をきわめ、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。ねがはくは、ここが有名になりすぎたりしませんやうに」
ほかにも石坂洋次郎が「私はここに泊まって、夜はよく眠り、晝間は大いに仕事の能率をあげることが出来た」などと書いた直筆が残っている。出版社が多くある神田の神保町に近いので、山の上ホテルは創業の時から作家たちが「カンヅメ」で執筆させられるのにも使われた。締め切り前になるとロビーには原稿を待つ編集者たちで溢れかえっていた。
客室は現在、35室。坪庭つきのスイートルームや、畳の部屋にベッドを置いた和洋折衷の部屋など、1室ずつレイアウトが違う。ロビーのライティングディスクに置かれた辞書、壁のタイル、ドアノブ、革張りのベンチ、エレベーター、ステンドグラスなどにも時を積み重ねた物語がそれぞれある。
山の上ホテルは長期休舘と発表されているだけで、いつから再開されるのかはわからない。休館する前に一度、宿泊したかった。
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