築山を中心とした緑美しい見事な庭園
金ケ崎の大松沢家 |
昨年のゴールデンウィークに、震災後初めて、宮城と岩手の海沿いを旅した。三陸沿岸道路を奥松島で降りて、震災遺構として保存されている、津波の生々しい痕跡を残した仙石線の旧野蒜駅を眺め、伝承館になっている駅舎で当時の状況を見聞きした。
そこから海岸沿いの一般道を北に向かって走り、石巻では津波と火災の被害に遭った門脇小学校や、海から3・7㎞も離れているのに川を遡上した大津波に襲われ、児童と教職員合わせて84人が亡くなった大川小学校、多くの人が避難した日和山というように、行く先々であちこち歩き、さらに北上していった。
3日目から八幡平や盛岡など内陸を巡り、4日目の昼、帰路の途中で金ケ崎町にたどり着いた。江戸時代、金ケ崎は伊達藩の最北で、南部藩と接していたことから、重要な軍事拠点だった。武家町の地割がいまも変わらず残っていて、2001年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
保存地区は南北が980m、東西が690m、面積は約34・8ha。かつての要害と武家町のほぼすべてが含まれ、金ケ崎町城内諏訪小路といわれている。鉤形や枡形、弓形の道路を組み合わせた城下町独特のつくりがされていて、屋敷はサワラヒバの生け垣で仕切られ、北西にはエグネと呼ばれるスギの屋敷林など、さまざまな木々が植えられている。
小路の生垣とエグネの間から寄棟造りの武家屋敷の茅葺き屋根が垣間見られ、江戸時代に迷い込んだような気がする。
会社の同期で、父の親友のような存在だった大松沢のおじさまは金ケ崎生まれ育ちで、父からか、おじさまからかは忘れてしまったが、その金ケ崎の実家の持ちものの建物が料理屋になっていると聞いて「いつか行きたい」と思っていた。
大松沢家は山林奉行を務めたことがある武家で、明治になって造り酒屋を始めたという。カーナビを頼りに車を走らせると、表小路と伊達小路の境の枡形道路沿いに、大松沢家の持ちものの建物はあった。760坪の敷地に江戸後期の四脚門、石積みの板塀、エグネがあり、築山を中心とした大きな庭園が広がっている。
建物は想像と違ってモダンな二階建てで、造り酒屋をしていたため、大正から昭和の初期に宴会場として建てられたようだ。20年ほど空き屋になっていたのを、東京から故郷に戻ってきた男性が家主を説得し、時間をかけて建物を修理して、2014年にカフェ「侍屋敷 大松沢家」を開いた。
武家屋敷が多く残っているものの大半は非公開で、訪れる人に楽しんでもらえたらと思ったという。あとでわかったが、大松沢家は四脚門と庭園が保存指定されているが、モダンな2階建ての建物は入っていない。エノキやカエデなどの巨木が多く、緑が眩しく美しい。
建物のなかに入れるまで1時間以上、庭のベンチに座って待っていた。天気もよく、緑のシャワーを浴びながら深呼吸をし、気持ちがよかった。なかに入って食事が運ばれてくる間に建物探検もして、2階からの緑の風景の素晴らしさに圧倒された。
食後は保存区域を散策した。大松沢家のそばに大沼家の侍屋敷があって、説明してくれた人によると、大沼家の母屋、馬屋、厠と並ぶ三ツ屋形式という家の配置は侍屋敷の典型という。大松沢家で食事をしたことにふれると、NHKの番組「フルカフェ」で取り上げられたことを教えてくれた。
父が逝った時、わたしたちが心配してしまうほど長い時間、傍らにじっと座っていた大松沢のおじさまも、それから数年後に亡くなった。宮城と岩手の旅から帰ってきて、金ヶ崎の大松沢家に行って来たことを、仏壇に手を合わせながら父に報告した。
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