人生に無駄なことは一つもない
フジコさんと投網子さん |
フジコ・ヘミングさんが4月21日に亡くなった。本名はゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコさん。これまで年齢は明らかにされてなかったが、92歳だったという。昨年11月、東京・下北沢にある自宅の階段から落ちて腰椎を骨折、脊椎も損傷する大怪我をし、今年3月には膵臓がんが見つかって療養していた。葬儀は近親者で済ませ、それから、その死が公表された。
突然の訃報に頭をよぎったのは、母でピアニスト、ピアノ教師だった大月投網子さん(享年90)の死について語ったフジコさんの言葉だった。「死ぬ人は、その人が死ななければ贈れない最善の贈り物を後の人に残していく。それを受け取った人は不思議な力を受け、新しい生涯が始まる。母の死は、そんなことを教えてくれたわ」と。
投網子さんが亡くなった1993年、フジコさんはフランスに住んでいて、ピアノを教えて生計を立てていた。夏休みになったら、入退院を繰り返していた投網子さんに会いに日本に帰ろうと思いながら、フジコさん1日に何度も母のために祈った。そんなある日、弟さんから電話があって、母の死を知らされた。
フジコさんが日本に帰ったのはそれから2年後。「日本であなたの活躍する場はない」と、投網子さんに言われていたからなのか、それとも、亡くなる1週間前に気丈な投網子さんが病室から頼りない声で電話してきても、仕事を理由に帰らなかった後悔からなのか、なかなか帰る決心がつかなかった。
投網子さんの手ほどきでピアノを始め、17歳でコンサートデビューしたフジコさんは、東京藝術大学に進学して数々の賞を受賞し、将来は約束されているものと思っていた。しかし日本で評価する人は少なく、28歳の時、ドイツに留学した。30代半ばにバーンスタインの支援を得てリサイタルの開催にこぎつけたが、直前に風邪をこじらせて両耳の聴力を失い、リサイタルは惨憺たる結果に終わった。
それからは耳の治療に専念して、聴力は左の耳だけ4割ほど回復した。暮らしていくために音楽教師の資格をとってピアノを教え、少しずつヨーロッパの田舎町で演奏活動もした。お金に困っていると、必ず投網子さんが送ってくれた。
母の死をきっかけに、フジコさんは1995年、30年以上続けた海外での生活に終止符を打ち、投網子さんが遺した下北沢の家で暮らし始めた。ピアノを教えながらホームコンサートから始め、藝大の旧奏楽堂や横浜の旧イギリス大使館などで演奏会を開いた。
そんななか、1999年にNHKのドキュメンタリー番組「フジコ~あるピアニストの奇跡」が放送され、フジコさんは再び注目された。デビューCD「奇跡のカンパネラ」は、クラシック界では異例の50万枚を超える売り上げとなった。
フジコさんの演奏を2度聴いている。1度目は20年ほど前、横浜みなとみらいホールの前から2列目の真ん中の席で、フジコさんがステージに出てきた瞬間、存在感に圧倒された。自分流にアレンジしたドレスにフジコさんらしいアクセサリーと髪飾りをつけ、色とりどりのスパンコールで覆われた靴は、ペダルを踏む度にきらきら光った。手はピアニストというより、それまでの生きざまを表していた。
2度目はそれから4、5年後、いわきアリオスで開かれた演奏会だった。しぐさや表情もつぶさに感じられる席だったが、1度目よりずっと聴くことに集中できた。
わたしだけの音と、わたしの表現を大事にしていたフジコさんの演奏は1音、1音がこころに響く。子どものころ、ずいぶん投網子さんのスパルタレッスンを受け、そこからの逃避が想像する力を養い、その後のどんな辛い状況も猫と一緒に乗り越えてきた。
後年、フジコさんは「人生に無駄なことは1つもない」と言っていた。たどってきた数奇な人生が音として奏でられ、演奏の深みを増していることを実感していたからだった。
電話で投網子さんの訃報を聞いた日、フジコさんは「さよならママ。すみません、なにもかも」と日記に書いた。ロシア系スウェーデン人の画家で建築家の父が家を出て行ってから、投網子さんはピアノ教師をしてフジコさんと3歳下の弟を育てた。
純粋で不器用で、まったく嘘がつけず、世渡りが下手だったという投網子さんは、フジコさんの一番好きな人だった。フジコさんの望み通り、天国で投網子さんと会えただろう。
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。