

取り巻く時間の流れを意識して変える
スローダウン |
元旦の昼ごろに思い立って、お正月休みに宿泊できる温泉宿を探した。慣れている家族がネットを駆使して、限られたなかからいくつか選んで絞り込み、雪の状況などを直接、電話で確かめて予約。日常から離れた場所に身を置いて、取り巻く時間の流れから脱出を試みた。
年々、時間のスピードが加速しているように思う。年齢的にもっとゆったりできていいはずなのに、やらなければならないことが次々と押し寄せ、やってもやっても減らない。傍らには「時間のあるときに」と、後回しにしていることが積み重なり、鈍感力を養って気にしないようにしている。
これは、ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する灰色の男たちの仕業なのでは、と思って気配を探る。巧妙な詐術で、自分が過ごしている自由で豊かな時間を無駄なものと思い込ませ、効率よくてきぱきと事務的に仕事をさせて、その節約した時間を盗んで生きる灰色の男たち。どんどん無駄と思われるものを省いていくと、こころは余裕をなくして冷えきっていく。
たまに、そういう時もあるけれど、もともとのんびりしているので、年々のスピードの加速は灰色の男たちのせいではないだろう。自覚はないが、より動きが鈍くなっているのかもしれない。緩やかに立てたはずのスケジュールも思うようにいかない。
正月3日、お雑煮とおせち料理の朝食をとって、10時前に家を出た。寄り道しなければ2時間半ほどで着く。途中、数カ所に立ち寄り、3時過ぎに宿に入った。賑やかな温泉街を通り過ぎて、奥まった渓谷沿いの静かな場所にあった。
松笠風鈴が無数に下がるエントランスを抜け、屏風をイメージしたというロビーの大きな窓から冬景色を眺め、ソファに座ったまま宿の説明を受けて部屋に案内された。「紺碧の間」というその部屋は、窓辺の空間が壁も天井も床も、ソファもクッションも紺碧色でまとめられていて、深海にいるよう。大きな窓からの風景は刻々と変化する絵画みたいで、美しかった。
緑茶を飲んでくつろいだあと、温泉の成分や効能などのレクチャーを受け、ラウンジで地元名菓などでのおやつ時間を持ち、それから江戸時代の武士の酒席での作法にふれた。酒の心得は、品格と教養のある者同士で、人間性と精神性を高めることとか。「そび、そび、ばび」の合い言葉で、3度にわけてお酒を注ぐ。そびは少し、ばびは多く。ぐっと飲んだ地酒はまろやかだった。
夕食は遅めの7時半から。すべての料理が塗りの脚付き膳で出される大名会席。談笑しながら1品ずつ味わい、デザートを食べ終えると10時近くなっていて、聴きたかったお琴の演奏は終わっていた。温泉に浸かって、布団に入ったのは午前零時を過ぎていた。
翌朝は六時半に起きて、7時からの体操に参加した。深呼吸をしながら、身体のあちこちを伸ばして血の巡りをよくする。それから温泉に入って、9時から1時間以上かけて朝食をとった。江戸時代の藩主が好んだという根菜類がたっぷりの芋の子汁をみんなでお代わりした。そして11時過ぎに宿を出た。
必ずバックに入れているペンとメモ帳は、家を出る時に置いてきた。宿に新聞はなく、滞在中、テレビもほとんどつけず、スマートフォンにもあまりふれなかった。あとで気づいたが、宿で時計を見かけたのはお風呂場の脱衣場だけだった。
帰りの車中で、このままの時の流れ、空気感で日々を過ごしたいと思った。でも翌日から仕事が始まり、また、これまでの日常の時間の流れに身を置いている。時々、「スローダウン」とつぶやいて、取り巻く時間の流れを変えたい。
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