199回 中嶋洋子さんの思い(2025.3.15)

大越 章子



画・松本 令子

あの日あの時もしあの場所にいたら

中嶋洋子さんの思い

 

 神戸で造形絵画教室「アトリエ太陽の子」を主宰している、画家の中嶋洋子さんの年賀状に「福島テレビの『日本のチカラ』で絵本プロジェクトのことを放送してくださいます。ぜひ御覧いただきたいです」と、放送の日時が書かれていた。早朝でもあり、見逃さないように録画して、そのドキュメンタリー番組を見た。

 東日本大震災後、中嶋さんはいわきのいくつもの小学校に、手のひらに絵の具をつけてペタペタと大きな桜の木に花を咲かせる「命の一本桜プロジェクト」を届けてくれた。完成した満開の桜の木のそばで「いま、いのちがあるのは偶然じゃない。一生懸命に生きて」と、子どもたちを勇気づけた。
 以来、年賀状のやり取りが続いていて、中嶋さんは毎年、アトリエ太陽の子のさまざまな写真とともに近況を伝えてくれている。
 阪神・淡路大震災で、中嶋さんはアトリエの教え子の姉妹を亡くしている。家族5人の姉妹は自宅が倒壊し、1階で折り重なるように全員、遺体で見つかった。お母さんは赤ちゃんを胸に、姉妹をぎゅっと抱いて丸くなり、その上にお父さんは身体をのせ、子どもたちを守るようだったという。
 大惨事を前に、画家はなんと非力なことか。何もできない自分に、中嶋さんは画家としてどう生きるべきなのかを悩んだ。目の前には震災のショックで笑えない子どもたちがいた。その子たちの笑顔を絵の力で取り戻そうと考え、自身の制作よりアトリエの子どもたちと絵を描くことを優先した。
 時を重ね、アトリエには震災を知らない、経験していない子どもたちが通ってくるようになった。震災の記憶を伝えるために、中嶋さんは毎年、震災のいのちの授業を行い、子どもたちにあの日の光景を描かせている。
 当時のことをありのまま話し、あの日あの時もしあの場所にいたら、生きたくても生きられなかった人々の思いを想像させる。子どもたちは頭に浮かぶ光景を描いて、いのちと向き合う。

 ドキュメンタリーは中嶋さんの思いにふれながら、2年ほど前からアトリエで取り組んできた絵本プロジェクトの様子を伝えた。子どもに絵を教えて40年が過ぎ、身体の衰えを自覚するなかで、中嶋さんは百年先に阪神・淡路大震災を伝える絵本を子どもたちと作ることを考えた。
 阪神・淡路大震災が起きた日に生まれた赤ちゃんのはなし。あの日、大きな地震のあと、余震が続くなか、お父さんとお母さんはマンションの10階から非常階段を降りて小学校に避難した。お腹の大きなお母さんは寒さで体調を崩し、見知らぬ人の暖かな車のなかで身体を休め、その後、病院に向かったが大渋滞で、やっと辿り着いた病院は停電していて、まっ暗ななか、お父さんが懐中電灯で照らし、赤ちゃんは生まれた。
 アトリエの子どもたち219人は、その阪神・淡路大震災が起きた日に生まれた男性と両親に話を聞き、はじめはそれぞれに、最後には1枚の絵に15人以上がかかわって描き、絵本『ぼくのたんじょうび』が完成した。絵本の文章は男性の大学時代の恩師が書いた。
 「震災を伝えなきゃと頑張ってきたけれど、5年、10年後はわからない。先生の思いをみんなに託したい」。中嶋さんは完成した絵を前に、子どもたちにそう語りかけた。阪神・淡路大震災を風化させたくない、未来の子どもに伝えたい、と。
 東日本大震災と福島第一原発事故から14年が経つ。中嶋さんと思いは同じだ。

 

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