201回 出版記念イベント(2025.6.15)

大越 章子



画・松本 令子

剥き出しになったものと対峙し言葉を綴り続ける

 出版記念イベント

 

 3月中旬にZoomを使って、友人でフリージャーナリストの藍原寛子さんの『フクシマ、能登、そしてこれから 震災後を生きる13人の物語』(婦人之友社)の出版記念イベントが開かれた。東京の池袋にある自由学園明日館の婦人之友社展示室と福島や能登をつないで、雑誌「婦人之友」編集長の羽仁曜子さんを司会に、藍原さんが著書に登場する13人の紹介をするとともに、200人ほどで被災地のいまを見つめ、これからを考えた。

 婦人之友社は1903年(明治36)に羽仁もと子、吉一夫妻が創業し、同時に「家庭之友」(のちに「婦人之友」と改題)を創刊した。ふたりとも報知新聞の記者(もと子は報知新聞の初めての女性記者)をしていて、編集部内での恋愛結婚だったために退社を余儀なくされ、一年数カ月後、自分たちの雑誌を作り始めた。
 もと子が記事を書き、吉一が編集や経営を担った。衣食住や教育など、よりよい生活を目指す実用的な雑誌で、さまざまなアイデイアを提案し、それを読者が実践して工夫した点などを寄せた。そのうちに、読者たちの友の会が全国につくられた。
 1921年(大正10)、夫妻は自由学園を創設し、生活を学びの中心に据える教育を志した。校舎は帝国ホテルの設計のために来日していたフランク・ロイド・ライトが自由学園の教育理念に共感し、設計を手がけた。それが明日館で、開校に際し「自由なる心こそ、この小さき校舎の意匠の基調」と、お祝いの言葉を寄せている。
 現在の「婦人之友」の編集長の曜子さんは吉一の弟で、夫妻の事業を支えた賢良さんの孫。自由学園で学んだ後、大学に進学、留学を経てジャパンタイムズで記者をして、2010年に「婦人之友」の編集長になった。

 藍原さんは2014年、「婦人之友」に「福島のいま」を連載し、震災から5年後の2016年には「婦人之友」の企画で、作家の高村薫さんと「未知を生きる――原発を抱えた国で」をテーマに対談した。
 その時の高村さんの「大きな出来事を将来に向けて伝えるためには、個々人の記憶ではなく集合の記憶にならなくては」の言葉にこころを動かされ、わたしたちの物語を伝えたいと思ったという。五年後、「10年後のフクシマ」を「婦人之友」に連載し、それを加筆・修正、さらに能登半島地震に遭った人々を取材して、本を出版した。
 Zoomでの出版記念イベントでは、その本に登場している人たちも本の感想などを述べた。わたしもその一人として、本を手にした時にまっ先に浮かんだ、15年前の藍原さんの後ろ姿のはなしをした。
 2010年の春、藍原さんから勤めていた福島民友新聞社を辞めてフリージャーナリストで頑張ってみる、という連絡があって間もなく、久しぶりに会って昼食をともにした。別れ際、「とにかく二年頑張ってみる」と微笑む藍原さんに「もう決めたんだから、あとは前を向いてしっかり歩くだけだよ」と言って見送った、その後ろ姿だった。
 それから15年、藍原さんはひとりで地道に国内外を取材し、その時々伝えられる方法や手段で報道してきた。フリージャーナリストになった翌年に震災と原発事故が起き、取材はそれらに関することがほとんどで、暮らす人々の目線に立っている。
 「この本は藍原さんの15年間の集大成だと思う。あの後ろ姿に頑張ればこんなにいいことが待っているよ、と伝えたい」と、わたしは話した。

 出版イベントには作家のあさのあつこさんも参加していた。震災・原発事故後、言葉の無力さを痛感していた時、「朝日新聞」に掲載されたあさのさんの「試される言葉・問われる私」に励まされ、背中を押されて原稿を書いた。

 ただの悲劇や感動話や健気な物語に貶めてはいけない。まして過去のものとして忘れ去ってはならない。剥き出しになったものと対峙し言葉を綴り続ける。

 その場では言えなかったが、いまもその、あさのさんの言葉を片隅に置いている。

 

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